痛く切ない恋愛の10のお題
混戦を極めた戦場の中、砂塵を舞い起こし愛馬を駆る。
漸く、目線の先に求めていた姿を見出して、胎の底からその名を叫んだ。

「郭嘉!」

武器を持つには不似合いなほど、白く映える面(おもて)が僅かに振り向いて。

声は、確かに届いていた。
聡明な彼が、続く言葉の分からない筈はない。

しかし。
まるで何も聞こえなかったかのように。
黒衣の軍師は血塗れた手を高く掲げ、血花咲く前線へ馬首をめぐらせた。


「あそこは退くが筋だろう」

殿の御前であるにも関わらず、知らずと声が荒いだ。
痛々しく片腕を肩から吊った軍師は、普段の流暢な論調が嘘のように口を閉ざしたまま。
その代わりとでも言うように、覇王が柔らかに眦を細めた。

「そう怒るな、張遼。確かにお前の言う通り、郭嘉が下がってお前が前線へ上がるのが筋だったろう。だが、こやつは窮地にあった俺を救おうと無理をしたのだ。褒められたことではないが、咎められる謂れもあるまい。許してやれ」

「許す」と言う言葉に、黒曜石の眸にきつい光が過ぎる。
それでも、不本意を胸の内に呑み込んだのか。
結局、僅かに蒼褪めて見える軍師は、周囲に対して一言の口をきくこともなかった。
退出を促されて踵を返す。
ひとり呼び止められて覇王の御前に戻った彼は、吊った腕を無造作な手に掴まれて。
痛みに歪んだ顔に、常にはない、厳しい色を湛えた赤玉の双眸が寄せられた。

視界の片隅。
声は聞こえない。
それでも、戦が終わってからこのとき初めて。
硬く引き結ばれていた唇に、雪溶けるような笑みが浮かんだ。


回廊の欄干に身を持たせ、曇り空を見上げる。
背後を通る衣擦れの音に、振り向きもせず声をかけた。

「郭嘉」

すぐ後ろで、音が止まる。

「今度は聞こえたか」
「・・・貴方の声が、聞こえぬことはない」

久しぶりに聞いたような気がする澄んだ声音に、自然口元が綻んだ。

「聞こえても、届かぬことはあるようだがな」

言の葉に乗せたのは、皮肉ではなく事実。
それをどう受け止めたのか。
内を察することなど知れぬ、静かな応(いら)えが返された。

「その時は、仕方なしと打ち捨てておかれよ。御身がなによりも大切だ」

衣擦れの音が遠ざかる。
空を見上げたままの眸が、雲間から現れた陽光(ひかり)に強く射られた。

「捨ておけるくらいなら、戦場を鬼となって駆けようか。出来ぬ相談をする軍師だ」

不意に口をつく。
誰に聞かせるつもりもない呟きは、思うよりも重く胸に落ちた。


この感情に、名をつけることはしない
それでも、俺は幾度でも叫ぶのだろう

喩え、
おまえには届かなくとも