痛く切ない恋愛の10のお題
「風が温んできたな。許都ももうすぐか」

緩く癖のある髪に頬を撫でらせるがまま、轡を並べた人は頭(こうべ)を上げる。

「可笑しなものだ。あの、身と共に脳髄まで切り刻むような空っ風が、早くも懐かしいものに思えるとは」

微かに笑いを含む声音。
切れ上がった大きな眸は生気に満ち、細く折れそうなほど窶れた手が手綱を握っていた。

「多くのものを得た。だが、それは既に過去と言うことだ」
「・・・もう思い出にするのか。随分と早いものだな」
「当然だろう。今こうやって話す言葉も、口にした時から過去になるのだぞ」
「過去は要らぬか」
「要らぬと言っているわけではない。ただ、過去に構うのが勿体無いだけだ」

薄い背を逸らしたまま昂然と顎を上げる。
真っ直ぐな双眸は傍らではなく、高い蒼穹を見やって細められた。

「北風は過ぎた。南の風の音が聞こえんか?長城を超えた曹孟徳が覇業は、次は長江を越えるぞ」
「郭嘉」
「なんだ?」
「そこに俺の居場所はあるか」
「船に烏丸の騎馬兵だ。貴方が一番相応しかろう」
「では、そこにお前の居場所はあるか」

感情を乗せぬ平坦な問いかけ。
驚くほどに長い睫が、二三度不思議そうに瞬いて。

「・・・ない、と言ったならどうする?」

こけた頬に、ほんの微かな笑みが浮かんだ。

「・・・・・・」
「張遼?」
「・・・そんなことを言うな」

ぽつりと零れた言葉。
途端に、弾かれたようにからからと笑う声が響いた。
周囲を歩く歩兵達が、何事かと振り返る。
しかし、笑い声は一向に止まない。
鎧の重みに耐え兼ねる身体が、苦しげな呼吸に歪んで見えるほどに。

「郭嘉!」
「あ、っはは、将軍!そっちこそ、そんなことを言うのなら初めから訊くんじゃない。おや、なんだ、もしかして泣いているのか?」
「誰が何故泣くか。目に塵が入っただけだ。お前こそ」

幾分立腹したような口調に、吊り上った眦が雲間から漏れる光を弾いた。

「笑いすぎただけだ。そうだ、何故泣く必要などあるか。俺には、考えねばならぬことが山ほどある!策が湧きすぎて頭が割れそうだ!」

馬の腹を軽く蹴り、筋の浮かぶ瘠せた手が、それでも見事に手綱を操る。
振り返ることもなく。
隊列を外れ、先を行ってしまうその迷いなき背に。
残された者は泣いているかのような苦い笑みを、誰にも見せることなく押し殺した。


未来しか見ない貴方が痛い

この手に残されるのは、過去だけだと知っていて