痛く切ない恋愛の10のお題
「お前、昼間、孔融に絡まれたそうだな」
燈火の下、目を通していた書簡から顔を上げてふと思いついたように口にする。
坐臥にゆるりと横になっていた郭嘉は、己を見る面白そうな目線を見返した。
「絡まれたなどと、誰に聞かれたかは知らぬが大袈裟な」
「違うのか?」
「あれは、あの人なりの挨拶でしょう」
「不遜者、不敬者と詰られるのが挨拶か?随分なことだな」
書簡を伏せて席を立ち、曹操は笑いながら寵臣の傍らに腰を下ろした。
「狭い」
「お前が場所を取りすぎなのだ。少し空けんか」
大儀そうに身を起こした郭嘉は、髪に触れようとする手を物憂げに払ってそのまますり抜けようとする。
だが、強く肩を抑えられ、おまけに圧し掛かるような重みまでかけられて、揺らいだ痩身は再び坐臥に深く沈んだ。
「・・・殿。何のために吾がここにいるか、分かっておられるか?」
「儂の書簡整理の手伝いだ」
「ご名答です。なれど、吾は殿が先ほどの書を読み終えてくれなくては、することがございません」
「お前が勤勉なことを言うと気持ち悪いな」
「ご用がないなら帰らせて頂きます」
立ち上がる気配を見せた郭嘉の肩を抱き寄せて、曹操はあからさまな不満の色を浮かべた。
「傍に居よ。話は終わっておらんぞ」
「話とは?」
「・・・そうだ。孔融だ。お前は本当に怖いもの知らずよな。あの儒に凝り固まった頭の固い男に、己の尊ぶものは己だけだと答えたそうではないか」
「伝聞は歪みますな。吾は、信じるものは己だけと答えたまで」
「似たようなものだ」
「左様ですか?」
琥珀の双眸に一瞬過ぎった光を見逃さず、曹操は覗き込むようにして細い頤を捉えた。
「郭奉孝は誰も信じぬか」
「誰も信じぬとは言っておりませぬ。吾は、吾を信じるのみ。そう言う殿は如何なのですか」
「儂か?それは勿論、」
「勿論?」
「曹孟徳は、曹孟徳を信じるのみよ」
尊大に言い切った唇が、微かな笑みを象った薄い唇を塞ぐ。
弄るように口付けられて、潤んだ切れ長の眸が非難がましく眇められた。
「抱きたいのなら抱きたいと、素直に仰れば如何か」
「それでは色気がないではないか」
「なくて結構」
睨み合った視線に、どちらともなく笑い出す。
深い光沢を放つ紺の絹が、流れる水のように薄闇に解けた。
月明かりに仄かに浮かぶ横顔を見つめる。
穏やかな寝顔は、それでも、常人とは異なる気を纏ってそこにあった。
静かに手を伸ばし、秀でた額にそっと触れる。
「殿・・・」
吐息に近い声。
冷えた指先から、じわりとぬくもりが染み入った。
「吾は、吾だけを信じる。誰も信じないのではありませぬ。己の信じるものを、信じているのです」
常にない、柔らかな笑みが白い頬に浮かぶ。
しかし次の瞬間、込み上げるものを耐えるように郭嘉は己の胸を強く押さえた。
月光のせいでなく蒼褪めて見える肌に、先ほどまでとは違う汗が薄っすらと滲む。
「だから・・・だから、殿、」
継ごうとする言葉が、意思に反してもどかしく乱れた。
「殿は、常に・・・ご自分だけを信じて前に進まれよ。そうすれば・・・そうすれば、吾は・・・」
胸の痛みを押さえつけたまま、きつく唇を噛んで身を丸める。
眠りについているはずの人の手が離しはせぬと言うように、闇に絶え入りそうな身体を包み込んだ。
『吾は、吾だけを信じる』
その言葉の裏を、貴方は知っている
そう、
信じているのです
神よりも、 誰よりも、 ただ貴方ひとりを
貴方は必ず、前へ進む
だから、吾は、
赤壁へ
戦記1赤壁シナリオ