夜想
開け放った窓から、ふわりと夜風が吹き込んだ。
筆を持つ手を止めて、陳宮は顔を上げる。
明るいとは言い難い燭台のもと、長時間文字を追っていた目が、じんわりと熱を持っていた。
遠くの緑を見ると、目に良いのだという。
だが生憎、窓から見えるのは紺色の闇だけで、おそらく出ているだろう月さえ見ることは出来ない。
少しだけぼんやりとして、陳宮は再び筆を動かし始めた。
片付けなければならない問題が山積していた。
劉備から、半ば奪うようにして手に入れたこの土地。
それでも、初めて手に入れた確固たる地盤には変わりない。
今は、少しでも早く、人心を掴まなければならなかった。
武は主を筆頭に、心置きなく任せられる武将らがいる。しかし、内政を仕切れる文官は、あまりにも数が少なかった。
数が少ない、などと言うよりは、実質は陳宮一人と言っていい。
武にしか重きを置かぬ無双の主。
陳宮には、その人が己を迎えてくれたことが、殆ど奇跡のように思われた。
何を期待されて、傍にいることを許されたのかは分からない。
或いは、何も期待などされていないのかも知れない。
呂布は、陳宮のやることに一切口出しはしなかった。
それでも。
黙々と筆を動かす。
筆だこが出来てしまった指が、力を込めるたびに針を刺したような痛みを孕んだ。

「夜は静かで仕事が捗る・・・」

ぽつりと呟いて、気を紛らわすように耳を澄ます。
夜気に染むしんとした空気は、どこまでも静寂を保って無限に広がるように感じられた。
だが。

「?」

遠くで人工的な物音がした。
それは、すぐに夜陰には似合わぬ騒々しい足音に変わる。
曲者かと傍らの細剣を手にした途端、室の扉がけたたましい音と共に開かれた。
物も言わず入って来た人物に、陳宮は目を丸くする。
現れたのは太刀だけを腰に下げた軽装の呂布で、その背後にはやはり軽装の張遼が控えていた。

「殿、このような夜更けに如何なされましたか?」

主と重臣の登場に、何事か起きたのかと顔色を変えた陳宮は、遥か高い位置から眼光鋭い眸に見下ろされた。

「夜駆けに行く。ついて来い」
「は?」

一瞬、言葉を掴み損ねて陳宮は目を見張る。
それに、同じことを二度は言わぬと言う威圧的な顔が向けられた。

「・・・陳宮殿。我等と共に少しばかり乗馬致しませぬか」

二人だけに会話をさせていたら埒が明かぬと思ったのか、巨体の影から歩み出た張遼が穏やかな笑みを浮かべた。

「今宵は月が奇麗ですぞ」
「なにを仰るのですか、張遼将軍!こんな夜更けにそのような軽装で乗馬など、敵襲があったら如何なさるのです?!」
「儂を襲う気概のある奴がいるなら、お目にかかりたいものだ」

ふんと鼻を鳴らすと、呂布はくるりと背を向けて大股で歩き出した。
筆を投げ捨てて、陳宮は慌ててその背を追いかける。

「殿!そのような勝手をなされると、殿はよろしくても他の者が心配します!」
「だから、後で煩い小言を言われんよう、お前を連れて行くんだ。つべこべ言わずついて来い!」

振り向きもせず尊大に言い放つ。
地声の大きい呂布の声は、静かな夜闇をびんと震わせた。
脇に従った張遼が困ったような苦笑を浮かべる。
その笑みに苦々しい一瞥を返して、陳宮は負けじと大きな声を出した。

「お言葉ですが殿。私は、殿や張遼将軍の操る馬になどついて行けません!」
「誰がお前に馬に乗れと言った」
「?」
「何のために張遼がいると思っている?頭を使え」

よりにもよって呂布に「頭を使え」などと言われた陳宮は、顔色をなくして目を吊り上げた。
普段おとなしい分、怒りを湛えた陳宮はそれはそれは恐ろしい。
しかし、その冷たい怒りも意に介さぬのが呂布と言う男で、足早に歩く二人に挟まれる格好になっている張遼は、重く深い溜息を噛み殺した。

「陳宮殿、私の馬に一緒にお乗り下され」
「・・・・・・」
「赤兎を見失わぬよう、努力致します故」
「・・・・・・」
「陳宮殿、もう、諦めましょう・・・」

同じく被害者であろう古参の将に憐れむような目を向けられて、陳宮は渋々と唇をかみ締めた。


窓から吹き込んだ風よりも、馬上で身を切るそれは涼やかで心地良かった。
先を行く呂布は振り向かない。
それでも、陳宮と言う重荷を乗せた張遼の馬が赤兎に離されないのだから、手綱を加減しているのは明らかだった。
血色の馬とそれを駆る大きな背が、夜空を覆う青白い満月に鮮やかに浮かび上がる。
絵に描いたような、夢でしか見られぬようなその光景を、陳宮は不思議な心持ちで見つめ続けた。
やがて、棹立ちに赤兎を止めると、呂布は身軽く大地に降り立った。

「張遼!馬に水を飲ませてやれ」

言葉どおり、すぐ傍に、滝と言うには大袈裟な小さな清水が流れ落ちる場所があった。
窪みに溜まった透明な水に、空に浮かぶ月が見事に映りこむ。
馬から下りて安堵の息をついた陳宮は、夜の、そのあまりの美しさにしばし言葉を忘れた。
熱を持っていた目蓋が、少し楽になったような気がする。
目を閉じ、無言で月下に佇む陳宮を、水を飲む赤兎の側から呂布は黙って振り返った。

「月光に消え入りそうですな・・・」

傍らで零れた微かな呟きに、太い眉が険しく寄せられる。
次の瞬間、呂布は手に掬った水を思い切り陳宮へ撒き散らした。

「なっ?と、殿っ!?何をなさるのですか!」

いきなり冷や水を浴びせられた陳宮は、眦を吊り上げて悪戯の主を睨みつける。
だが、呂布は何食わぬ顔で、怒りに歩み寄って来る相手を見下ろした。

「目が赤い」
「え?」

怪訝そうに首を傾げた陳宮の、その黒い双眸を覆うように、呂布は手にしていた練絹を乱暴に押し付けた。

「と、殿?」

水を含んだひんやりとした冷たさに、目蓋の熱が奪われる。

「行くぞ」

ぞんざいに言い捨てると、呂布は最早一瞥もくれずに赤兎に跨った。
呆気にとられている陳宮に、張遼が促すように手を伸べる。
再び駆け出すのかと身構えたが、予想に反して呂布はただ赤兎を歩かせ続けた。
冷えた練絹を握り締めたまま、陳宮はゆらゆらと馬の背に揺られる。
やはり振り向きもしない呂布が、なぜだか童子のように笑っている気がした。


「眠られたようですな」
「そうか」
「よほどお疲れだったのでしょう」

背にかかる重みに、張遼が告げる。
返答はそっけなかったが、馬首を巡らせた呂布は、張遼の背で寝息を立てている小柄な身体を引き掴んだ。
粗雑に見えて、実は全然そうではない仕草。
普段は持ち歩かない練絹などを用意したのは、他でもない呂布当人だと言うのに。
言葉が足りなさすぎる主に、張遼は苦笑を噛み殺した。

「なんだ?」
「いいえ、別に」

きつい眼差しを股肱の臣にくれて。
己の胸に唯一の軍師を抱きかかえると、無双の将は愛馬の腹を蹴った。


無限の平原を駆け続ける。
互いに見る夢は、違うのだとしても。