愚挙
ずきりと腕が痛んだ。
抱えた竹簡は然程の量ではないのに、今はその重みが厭わしい震えを走らせる。
眉間に深い皺を刻んで、郭嘉は小さく舌打ちした。
放り投げてしまいたいのは山々だが、そのような奇行をなせば必ず曹操の耳に届く。
それでなくとも盛大な尾鰭がついてまわる己の行状に、別事で鬱屈しているだろう主の胸を煩わせたくはなかった。
だが、その思いとは裏腹に、じわりと痺れを増した腕は感覚が鈍くなる。
取り落とす前に何処かへ置かなくてはと焦った郭嘉は、不意に伸びてきた手に驚いて息を止めた。

「手伝ってやろう。何処へ持って行く?」
「・・・夏侯惇将軍」

音もなく忍び寄ってきた隻眼の男に、色の薄い双眸が剣呑に眇められた。

「こっそり近寄っていきなり荷を奪うとは。強盗にでも転職するつもりか?貴方の面相だと洒落にもならぬぞ」

解放された腕をだらりと両脇に下ろし悪態を吐く相手に、夏侯惇は慣れたもので顔色一つ変えない。

「すまなかったな。だが、声をかけたら取り落としそうに見えたのだ」
「・・・・・・」
「腕をどうかしたのか?」

つい先ほど、共に曹操の傍らにいた時には、何の異常もなかったはずの腕。
その不自然さに気がついて、夏侯惇は静かな問いを差し向けた。
猫のような双眸が、片方しかない目をじっと見返す。
答えなかったとしても、見た目にそぐわず気性の穏やかなこの将軍が、怒ることなどないと郭嘉は知っていた。
だが、

「呂布にやられた」

薄い唇に微かな笑みを浮かべて、紺衣の袖を捲り上げる。
現れた陽に焼けぬ柔肌に、目に痛いほどの赤さで大きな腫れが広がっていた。
腫れは手の形を成し、酷い鬱血具合から、掴まれた力の尋常ならざる強さが伺える。
骨が折れていないのが不思議な有様だった。

「・・・何を言って怒らせた?」
「なんだ。あからさまに吾が悪者か?」

夏侯惇が発した言葉に、郭嘉は面白そうに肩を竦めた。

「怒らせたわけではない。ただ、陳宮殿はここにはおらぬと、親切に教えてやっただけだ」

苦虫を噛み潰したような真面目な顔に、つい、言うつもりのなかったことまで口走る。
途端に、それまで静かだった隻眼に鋭い光が走った。

「待て!何処へ行く?!」

険しい顔で背を向けた将軍を、郭嘉は嫌な予感を抱いて呼び止めた。

「孟徳のところだ」
「何をしに?」

らしからぬ慌てぶりで追いかけてきた若者を見やって、夏侯惇は渋い表情のまま続けた。

「陳宮を呂布に返してやるよう進言する」
「なっ」
「孟徳とて分かっているはず。これ以上、あの男を側においても何の得もえられはせん」
「駄目だ!まだ、まだ早い」

強い声にぴたりと歩みを止めて、夏侯惇は傍らの腕を掴み取った。
腫れに触れぬよう慎重に。
それでも、痛みからか、細い眉がきつく顰められた。

「腕を折られてからでは遅いぞ」
「将軍・・・」
「その腫れを、孟徳に何と言い訳するつもりだ?」

いつもは冷然とした双眸に、不意に昏い色が過ぎる。
その色を、夏侯惇はここ最近、もう一人の男の眸にもよく見かけていた。
かつて、処刑を待つだけだった曹操の命を救ってくれた恩人。
そして、共に戦おうと誓いながら、何も言わず袂を別った裏切り者。
どちらでその男の名を彩るか、それは人々の心次第。
夏侯惇は、どちらも選ばなかった。
だが、多くの者は恩より仇を心に深く刻む。
そしてそのことを、人心を統べるに長けた曹操は誰よりも良く理解していた。
陳宮を側に置くのは、曹孟徳なりの一種のパフォーマンスだ。
だが、それももう潮時だろう。
目の前の、白い怜悧な貌を見下ろして、夏侯惇は片方しかない目を曇らせた。

「・・・心配要らぬ」
「?」
「殿は気付かれぬさ」
「そんな派手な腫れ、気付かないわけなかろうが。まして、」

続けようとした言葉を、辛うじて呑み込む。
だが、見上げてきた双眸が、嘲笑うかのように細められた。

「気付かせはせぬさ。暫くは閨に侍らぬのだしな」

気遣った男を小馬鹿にするように、耳慣れた声が乾いた笑いを零す。

「まぁ、腫れが引く頃には、吾を思い出して下さろう」

何の感慨も伺えぬ声音。
だが、告げる言葉が終わるか終わらぬかのうちに、夏侯惇は紺衣の身体を腕の中に閉じ込めていた。
さすがに驚いたのか、色のない顔が僅かに気色ばむ。

「将軍っ?」
「頭がいいくせに、どうしてこれほどまでに愚かなんだ・・・」

耳元での呟きに、切れ長の眦が険しさを増す。
覆い被さる体を振り払おうと身を捩ると、束縛は呆気ないほどあっさり解かれた。
見つめてくる男の顔を直視できず、郭嘉は唇を噛んで目を逸らす。
沈黙が落ちた。

「・・・何処へ持って行く?」

どのくらい経ったのか。
二三歩距離をとった夏侯惇は、初めの問いを繰り返した。

「・・・司空府の書庫へ」
「分かった」

言葉少なに踵を返した男の向かう先は、もう丞相府ではない。
それを確かめて、それでも、郭嘉は安堵とはほど遠い感情に拳を握りしめた。
ほんの僅かでも。
見つめてきた男に、優しい言葉をかけてもらうことを期待した。
彼の人が心を砕くのは、己ではなく曹操だけだと嫌と言うほど知っているのに。
浅はかさと甘えに目頭が熱くなる。
無様に震えぬよう小さく息を吸って、郭嘉は先を行く背を追いかけた。

ゆっくりとついて来る気配を感じ取り、夏侯惇は竹簡を抱えた腕に力を込めた。
傍若無人で知られる生意気な若者が、今にも泣き出しそうに眸を曇らせる。
その無意識の表情を向けられる者は、そう多くはないだろう。
それでも、彼が求める救いは、曹操でなくては与えられないのだ。
分かっていて尚、腕に閉じ込めた痩身を慰めたいと思ったなどと。

「知ったなら、お前はどうする?」

頭が切れすぎる故に、簡単なことを見失っている愚か者たちを傍らに置いて。
答えを出せるのは、お前一人しかいないというのに。
情け深い従兄弟の、王たる顔が脳裏に浮かぶ。
歪んだ歯車が壊れぬうちに、手にすべきではなかった獣を処置せねば。
夏侯惇は溜息を噛み殺す。
感覚など疾うの昔に失った空っぽの眼窩が、じくりと腐るような痛みを孕んだ。