思惑
下ヒで敗れ、曹操に降ってからと言うもの、戦に次ぐ戦で各地を点々とする日々が続いていた。
呂布にとって、それ自体は不満に思うことではない。
董卓がいた頃のように、宮中に身を置かねばならぬほうが反吐が出るほど忌々しい。
元々、戦にしか己の存在意義を見出せぬ男なのだ。
それに、曹操と言う男は予想していたよりは寛容で、呂軍の編成を呂布自身に一任した。
張遼や高順と言った猛将を躊躇わず呂布へ戻したのは、その豪胆を誉めてやってもいいとさえ思う。
二月に一度は必ず全将で帰都し、曹操に現況報告をしなければならぬと言うのも、鬼神と恐れられた呂布を従えるのには当然のことだろうと理解できた。
だが。
ただひとつ。
未だ認められぬ要求に、久方の許昌を歩く呂布の機嫌はかなり思わしくなかった。
長い綸子を靡かせ、派手な鎧を纏った巨躯が肩で風を切るさまに、居合わせた諸官は恐れ戦いて道を開ける。
それにさえ一瞥もくれぬまま険しい表情で歩いていた呂布は、己の名を呼ぶ鋭い声にようやく歩みを止めた。

「呂将軍。どちらへ行かれる?ここから先は、貴方のような武人の来る場所ではない」

見返せば、つい先程曹操の傍らに居た男が、竹簡を手にして立っていた。

「ふん、青二才か」
「いい加減その呼び方はやめろ。名を呼びたくなくば、軍祭酒と呼べ」
「青二才は青二才で十分だ。そこをどけ」
「用もなく文官の仕事場へ踏み入ることは許さぬ。特に、貴方にはそのような権利はない」

言葉のきつさとは裏腹に、線の細い顔には複雑そうな色が浮かんだ。

「それに、今立ち入ったとて、陳宮殿はここにはおらぬぞ」
「!」

片手の一押しで吹っ飛んでしまいそうな痩身の前で、呂布はぴたりと動けなくなる。
見上げてくる色の薄い双眸をぎりりと睨み返したが、動じることもなく淡々とした声が続いた。

「引け、呂将軍。貴方の仕事はここにはない。すぐさま戦地へ取って返し、また二月の後(のち)に戻るがいい」

そっけなく踵を返そうとした紺衣の腕を、呂布は咄嗟に掴み取った。
握った腕の細さに思わず驚いて、文官とは皆こういうものなのかと、一瞬、懐かしい顔が脳裏を過ぎる。

「呂将軍?」
「・・・・・・」
「呂将軍、吾の腕を折るつもりか!離されよ!」
「なぜ・・・なぜ、陳宮を返さんのだ?」
「!」

束縛の手を緩めると、見上げてきた白い貌が零れそうなほど目を見開いた。

「張遼も高順も躊躇わず儂の元へ戻しておきながら、なぜ、陳宮だけは戻さぬ?儂は、曹操に言われるがまま数多の戦に赴き、そして勝ってきた。陳宮を軍師に戻せという望みが、望外だとは思わん。答えろ、青二才。どうしてアイツは戻らんのだ?お前が曹操に入れ知恵をするのだろう?それとも、なにか戻せぬ理由でもあるのか?!」

押し殺した胸の内を言の葉にのせているうちに、緩めたはずの手に再び力が篭る。
薄い唇から苦痛の呻き声が漏れるのを聞いて、呂布ははっと手を離した。

「すまぬ」

咄嗟の謝罪に、痛みに歪んだ顔に微かな笑みが過ぎる。
どこか哀しげなその笑みが、再び懐かしい面影に重なって、呂布はぐっと拳を握り締めた。

「・・・吾はなにも。それに、陳宮殿はお元気だ。心配するようなことはなにもない」
「ならばなぜ」
「陳宮殿がお望みなのだ。丞相のお傍近くで仕えることを」
「どういうことだ・・・。それは、儂の元には戻りたくないということか・・・?」

予想もしない返答に、呂布は言葉をなくす。
呂軍の軍師は自分しかいないと。
困ったように溜息をつきながら、しかし、誇らしげに胸を張る姿が思い出された。
殿に要らぬと言われても私は呂軍の軍師だ、と。

「・・・それは、本当か」
「今更、嘘は言わぬ。奸雄などと呼ばれていても、殿は情の深い方。一度裏切った者であれ、いや、そうであるからこそ、陳宮殿を大切にしておいでだ。陳宮殿もよく仕えていらっしゃる」

なぜ陳宮が曹操を裏切ったのか。
その理由を、呂布は一度たりとて尋ねたことはない。
もしかして、陳宮は曹操の下へ戻りたいと、ずっとそう願っていたとでもいうのか。

「呂将軍」

考えに沈んでいた呂布の耳に、良く響く声が届いた。

「単純な貴方が何を考えているか、吾には手に取るように分かる」
「なにをっ」
「喚くな。陳宮殿は傍から見れば幸せそうだ。何も知らず、傍から見れば、な」
「・・・・・・」
「真実を知りたければ、戦に勝つことだ。誰にもなにも謗られることない堂々たる実績と、疑われることのない揺るぎなき忠節を積み上げろ」
「・・・・・・」
「さすれば、いずれ、真(まこと)の答えに手が届こう」

ふわりと。
長い衣を翻して、細身の体が遠ざかる。
今度は止め立てずその真っ直ぐに伸びた背を見送って、呂布は高く踵を鳴らした。
もと来た道を、振り返らずに大股で戻る。
城門では、張遼や高順たちが赤兎を連れて待っているはずだった。
この平和な許昌の都で。
陳宮が無事に生きているというのなら、これ以上焦ることもない。
あの、口煩く神経質で、自分のことより周りばかりに気を遣う損な性質の男が。
曹操の元に居たいと言うのなら、そのとおりにさせてやればいい。

「この俺がいずれ取り戻す、それまではな」

空を見上げる。
澄んだ蒼色に豪放な笑みを向けて、何かを掴み取るように呂布は高く手を翳した。
姿は見えずとも。
きっと、何処かで自分を見ているはずの、ただ一人の軍師へ向けて。



「呂布は戦地へ戻ったそうだ」
「左様でございますか」
「一度も顔も見せずに良かったのか?」

深く響く声音には、静かな乾いた微笑みが返る。

「何度も申し上げております。今更、会わせる顔などございません」

短く言い切る、揺るがぬ表情。
意志の強いその眸を見つめ返して、曹操は軽く手招いた。
呼ばれるままに傍へ寄る男の肩を抱き寄せながら、言いかけた言葉を胸に呑み込む。

「それとも、丞相は、私がお傍に仕えるのがお嫌なのでしょうか」
「・・・そのようなことはない」

下手な芝居など見え透いているというのに。
哀れと突き放すことも出来ぬ己に曹操は自嘲する。
我が軍師を返せ、と。
燃え立つ炎を湛えて睨みつけてくる双眸を思い出し、喉の奥で小さく笑った。


曹操の寵愛する軍師・郭嘉が、呂布を殺さず配下にするならば、禽獣として飼い殺すよう進言したと聞いた。
郭嘉は呂布を信じていない。
そして、曹操は郭嘉を信じている。
これ以上、裏切り者である自分の存在が、呂布の負担になってはならなかった。
陳宮は、曹操の肩越しに窓の外を見る。
蒼い、蒼い澄んだ空に、心に刻んだただ一人の主を浮かべて。

すぐ傍で、焦がれるほど懐かしい声が、自分の名を呼んだような気がした。