不意打ち
朝、目を覚ましたら、喉が妙に痛んだ。
昨日までは確かになかったその痛みに、郭嘉は薄い眉を顰める。
夕べ、ふらりと散歩に出たら、頭の中に新たな軍略が湧き起こってきた。
考えることに夢中になると、周りの状況が見えなくなる。
それは、良くないことだと分かってはいるが。
昨日もやはり、いつの間にか降り出した小雨に気づかずに、強か着物を濡らしてしまった。

「小雨だと思って甘くみたか。だが、風邪…というほどではあるまい」

己の額に掌を当てて、熱などないことを確かめて。
痛む喉をさすりながら、のろのろと出仕の仕度を始めた。


別に、大したことなどないと思っていた。
朝一番、もはや恒例となった曹操との戦論議を繰り広げた時も、声はいつもどおりに出た。

「おまえの激昂している声を聞くと、脳の目覚めが良いわ」

などと、ありがたくもない言葉を賜るくらいに。
しかし。
太陽が昇るにつれ、喉の痛みよりも頭痛のほうが酷くなってきた。
米神を押さえ欄干に凭れていると、通り過ぎる顔見知りが「二日酔いか」と揶揄かって行く。
「ああ、そうだ」と投げ遣りに答える声も、思うような張りはない。
まずいな、と思う。
触れる額が、確実に朝より熱い。
本格的に風邪を引いたのかとうんざりして。
さっさと寝床に寝転がってしまいたい衝動に駆られたが、午後からは大事な討議があった。
朝の、曹操との議論の続きを、今度は主だった文官、武官を交えて検討する。
絶対に、外すわけにはいかなかった。
主の腹の底の読めぬ楽しげな顔を思い浮かべて、郭嘉は背筋をぴんと反り返らせた。

風邪をひくことも病であるが。
己は、戦という病に、より侵されているのだと実感する。
一人の時は、あれほど鬱陶しかった頭の痛みも、議論が始まってしまえば感じる暇(いとま)もなかった。
曹操は、郭嘉の案を支持しているのかいないのか。
はっきりとさせないまま、座を煽る。
痛んだ喉が、時折声を掠れさせたが、そのような些細なことに気を留める者などいなかった。
常に、反論はある。
それを切り返していくうちに、脳漿は更に澄み渡っていく。
そして、幾許の時が過ぎたのか。
曹操は、上座から急に立ち上がると、にやりと大きな口で笑った。

「郭嘉の案を採る!郭嘉っ!今、詳らかになったことを忘れるなよ!」

可々と大笑して出て行く主公に、皆が慌てて低頭し。
背を反り返らせたまま、
座の主役は紅潮した頬を綻ばせた。


外は、茜色を通り越して、すっかり闇に染まっていた。
春と言うにはまだ肌寒い風が、時折、頬を撫でていく。
昼間と同じように、回廊の欄干に凭れかかって、郭嘉は風に吹かれるままになっていた。
気分は悪くなかった。
ただ、体中が無闇に熱かった。
足元がふわふわと覚束なく、しかし、それさえも酩酊に似た心地好さを感じる。
たとえ、それがそのうちに、背を這い上がるような悪寒に変わるのだとしても。
今は、気分は悪くない。
鼻歌でも歌いだしそうになっていた郭嘉は、不意にかけられた声に、飛び上がるほど驚いた。

「郭軍師」
「なっ、なんだ」

振り返って見とめた特徴ある髪型に、相手が近頃新たに麾下に加わった将軍だと知る。
郭嘉は、それでなくとも吊っている眦を更に吊り上げて、大きな男を見返した。

「張遼将軍か。音もなく人の背後に立たれるなど、趣味が良いとは言えませぬな!」
「すまぬ」

あっさりと謝罪を口にして、張遼は手にしていた包みをおもむろに差し出した。

「殿からお預かりした」
「殿から?将軍が?」
「たまたま行き会った。時間があるなら、これを郭軍師に届けよと」

受け取った包みを全て開ききる前に、苦い匂いが鼻をつく。
「薬か」と呟いて、郭嘉は眉間に皺を寄せた。

「養生せよとも仰っていた」
「ふん。お見通しであったか。なのに、議論を止められぬとは。あの方はまことに人が悪い」

表情は嫌そうに、しかし、声音には嬉しさを滲ませて、郭嘉は手にした包みを懐に仕舞う。
それを黙って見つめていた張遼は、「まだなにか?」と無言で問う視線に口を開いた。

「風邪を召されたのか」
「大したことはない」

自嘲気味に笑った郭嘉は、次の瞬間、真っ暗になった視界に目を瞬いた。
ざらついた大きな掌が、額から目蓋までを覆っている。

「熱が高いな」
「ち、張遼将軍!なにをっ」

叫ぶと、視界は開けたが、今度は更に予想もしない事態が襲ってきた。
唇に、温かな感触。
それは、強く郭嘉の口内を吸い上げると、触れたときと同じ唐突さで離れていった。

「!!???」

優秀な脳が状況把握を怠って、大きな眸が零れんばかりに瞠られる。

「風邪は人にうつすと早く治ると聞く。大事になされよ」

あまりな不意打ちををなした当人は、真意の掴めぬ笑みを残し。
遠ざかっていく武人の背を、郭嘉は呆然と見送った。
とうとう高熱で悪い幻覚でも見たのかと。
熱を孕んだ唇に手をやったまま。


結局。

放心して夜風に佇み続けた郭嘉は、その夜から、三日三晩寝込むことになった。
張遼が体調を崩したと言う噂は、僅かも耳に入ってこない。