雪兎
徹夜明け。
文官の詰める房から出た郭嘉は、庭を覆いつくした白銀に目を瞬いた。

冷え込む筈だな。何時の間に降ったんだ・・・」

一睡もしていない目に痛いほど染みるその色に、思わず疲れた溜息が零れる。
筆を握るのもままならないほど悴んだ手を擦り合わせて、ふと己の指先を見つめた。
血の色が浮いた、かさかさの指。
「あんたの手は冷たいな」、と。
驚いたように言って、無造作に握り締めてきた掌の熱さが甦った。
甦ると同時に、ひどく腹立たしくなる。しかも腹立ちの矛先は、その温もりを思い出した自分自身。
行き場のない苛立ちに癖のある猫毛を掻き毟りかけた郭嘉は、べしゃりと頬に受けた衝撃に立ち止まった。

「あはは〜郭嘉、隙アリだよ〜!」
「荀ケ殿っ!何をなさっているのだっ!」
「雪合戦〜」

頬を伝うのは、冷えた雪の塊。
こんな酔狂をするのは、大方、曹操か荀ケに決まっている。
このくそ寒い中何をやっているのだと怒りに目を吊り上げて。
勢いに任せて振り返った郭嘉は、そこに予想外の人物を見とめて硬直した。

「荀ケ殿、と…張遼将軍」

名を呼ばれて、厳つい鎧を着込んだ武将は目礼を返す。
荀ケは硬直したままの郭嘉を気にも留めず、ぱたぱたと駆け寄ると回廊に攀じ登った。

「動いてたらあったかくなるかと思ったけど、やっぱり手足が悴んじゃったよ。張遼将軍、お相手ありがとう。あとは郭嘉と遊んでね」
「は!?」

衣冠に積もる雪を払いながら、荀ケはそのまま軽やかに駆け去って行く。
その背に虚しく手を伸ばしていた郭嘉は、微かな笑いが聞こえた気がして眦を吊り上げた。

「なにが可笑しいっ?!」
「いや。可笑しいのではない。仲が良いのだなと思っただけだ。気に障ったならすまん」
「障るに決まっているだろう!大体あなたはいつも配慮が足りないっ!」
「そうだろうか?」
「そうだ!気づいてないから余計タチが悪いのだな!己を見極めることは武将としての初歩の初歩だろうが!それも出来ぬようで、全体なんの最強か!」

噛み付くような物言いに、微笑みながらも濃い眉が寄せられる。
その困惑の表情を見て、郭嘉は心の中でずっしりと落ち込んだ。
張遼。字は文遠。
呂軍からの降将で、精鋭の騎馬隊を己の手足のように操る男。
その武に郭嘉は惚れていた。
彼の人が己の軍略どおりにその騎馬隊を動かすさまは、血沸き肉踊るものがある。
本当ならもっと親しい交わりをもちたい。
しかし、心とは裏腹に、本人を目の前にすると得意の悪態ばかりが口をついた。
時には辛らつを極める郭嘉の舌鋒を、面白がれるのは曹操くらいだ。
またやってしまったと頭を抱えそうになった郭嘉は、さすがにそんな無様は見せずにくるりと踵を返した。

「あなたが雪合戦などするとは驚きだ。失礼する」
「待て。郭軍師」

行きかけた郭嘉の後ろで雪を払う気配がしたと思うと、大柄な体が真横に立った。

「目が赤い。どうされたのだ」
「目が?徹夜明けのせいだろう。一睡もしていないからな」
「そうか。俺はてっきり…」

言いかけて思わせぶりに口ごもる相手に、大きな眸がジロリときつい目線を投げた。

「てっきり、なんだ?はっきり言え」
「…てっきり、心にもないことを言って傷ついているのかと思った」
「………」

優秀な脳髄が、言われた意味を理解するまで数秒。
理解した途端、郭嘉は更に眦を吊り上げて喚きだした。

「なっ、何を都合の良いことを言っているのだっ!なんで、俺があんたのせいで傷つかんとならんのだっ」
「ああ、そうだな」

猫毛が逆立つほど捲くし立てる相手を見下ろして、張遼は薄っすらと微笑んだ。

「そうであれば良いと思っていた。勘違いだったらしい」

薄い色の眸が、寂しげに曇る。
なぜそこでそんな風に笑うのだと、郭嘉は喉元まで叫びかけた。
だが、ぐっと拳を握り締めて下を向く。
収拾のつかない感情が闇雲に胸に湧いてきて、俯いたまま背を向けた。

「失礼する!」

ずんずんと殊更大股で歩み去りながら唇を噛み締める。
無益な論争に挑むほど己は愚かではないのだと、訊かれもしない言い訳を自分自身に論(あげつら)って。

「これではまるきり負け犬ではないか…」

何の勝負かすら定かではないと言うのに。
雪の眩しさのせいだけではく、目の奥がじんと痺れるように痛んだ。

「やはり泣いているんじゃないのか…?」

見えなくなった後姿に、残された張遼はポツリと呟く。
庭先にぽつんと、荀ケが作った愛らしい雪兎が目に付いた。
赤い目をした小さなそれが、先ほどの軍師の姿と重なって。
似ているなどと言えば、また烈火のごとく怒るのだろう。
しかし、それも悪くないと思っている自分に、張遼は戸惑ったような微苦笑を浮かべた。

澄み切った蒼天が、心を見透かすような冬の午後。