優先順位
「ふ、は・・・はっ、くしっ!!」

愛馬の様子を見た後、自身の幕舎へ戻る途中。盛大なくしゃみが出て足が止まった。
濡れた髪は乾き切っていない。衣もまだ、湿ったまま。
今日は3度、水を被った。
荀攸殿と共に出陣する時は、大概水計の囮を仰せつかる。ずぶ濡れになるのはわかりきっていることだが、秋も深まるこの頃ではさすがに身が冷えた。
それでも、主君や軍師が濡れ鼠になるよりはましかと納得して。
歩き出そうとしたが、再度くしゃみに足止めを喰らった。

「こんな夜更けになにをしている、張遼将軍・・・」

目の前の帳が上がり、中から軍祭酒が現れる。
重たげな冠と上衣を脱いだ、ひっつめ髪の簡素な姿。きっと、そろそろ休もうとしていたのだろう。

「すまん、煩かったか。馬たちの様子を見に行っていたのだ」
「それで、そのくしゃみか?・・・将軍、髪が濡れているのではないか?もしかして、衣も?」
「ああ。今日は予定以上に水を被った。生憎、着替えは切らしているが、そのうち乾くから問題ない」

答えると、夜目にも怜悧な顔が不愉快そうに顰められる。少し待てと言いおいて幕舎に引き返した軍祭酒は、ほどなく大判の布を持って戻ってきた。
ぱさり、と。
乾いたそれが頭にかけられる。
遥かに背の低い軍祭酒は、背伸びをするようにしてその布ごと俺の頭を引き寄せた。

「痩せ我慢などするな。将軍ともあろう者が、誰ぞにでも言いつけて支度させれば済むことだろう」
「瘠せ我慢などしていない」
「あんなくしゃみをしておいて、体調を崩したらどうするつもりだ。ほら、もう少し頭を下げられよ。さすがに私のところにも衣の替えはないが、殿にお聞きしてすぐ用意させよう」

髪を拭こうと、腕を伸ばし切ったせいで袖が捲れる。
首に回された痛いほどに白い腕が、視界の隅でちらついた。

「聞いているのか、張遼将軍!」
「あ、ああ」
「貴方にもしものことがあったら、私はどうしたらいいのか分からない」

真っ直ぐに向けられる、夜の空より黒い眸。
真剣なその目を暫し見つめ返して、衝動で身体を動かす前に辛うじて口を開いた。

「・・・それは、この俺が大事だと言うことか」
「もちろんだ」

迷いのない、即答。

「貴方は私の策の大切な要。貴方ほどの将がいなくなったら、戦略をすべて考え直さなければならなくなる。とんでもないことだ」
「・・・戦のためか」
「殿の勝利のためだ」

ふっと、微かに薄い唇が綻ぶ。


分かりきっていること。
軍祭酒の中の優先順位。

必ず着替えると約束して自分の幕舎を目指す。

身体の冷たさと頚元の温もりと。
中途半端な、心の温度を抱いて。