大きなこども
いつもは固く引き結ばれている薄唇が微かに緩んでいる。
筆を持つ手も心なし軽やかで、なにより黒曜の双眸には隠し切れない輝きがあった。
曹操の執務室にやって来た夏侯惇は、脇机で書簡を広げている馴染みの軍師の、その馴染みない雰囲気に真っ先に気がついた。

「郭嘉、機嫌が良さそうだな」
「これは、夏侯惇将軍。生憎、殿は外されていますが」
「ああ、そのようだな」

勝手知ったるなんとやら。
夏侯惇は返事をしながらもさっさと椅子を引っ張ってきて、どっかりと郭嘉の前に腰を下ろした。

「機嫌が良さそうだ」

繰り返すと、真っ黒な眸が僅かに細められた。

「否定はしません。あの神速の騎馬隊を我が策にどう使うか、考えていると心が浮き立ちます」
「張遼のことだな」

つい先日、呂布のもとから曹魏に降った将を思い浮かべ、内心で案の定だと頷いた。
それと同時に、多少頭の痛い思いがして、夏侯惇は微苦笑を浮かべた。

「おまえ、張遼に声をかけただろう?」
「はい」
「何と言った?」
「何と・・・?私はただ、『貴方は知らないだろうが私は誰よりも貴方を待ち望んでいた』と、そのようなことを」
「言ったんだな。その嬉しそうな顔で」
「本心ですので。何れ、彼の将軍の騎馬隊は私の指揮下に入るのです。殿もお認め下さっている。それを喜んではいけないのですか?」

向こう気の強い郭嘉が、訝しげに語調を強める。それに夏侯惇は軽く首を振った。

「何も悪くない。おまえは素直なだけだ」

軽くいなすように肩を叩かれて、郭嘉は不可解そうに隻眼を見返した。
揶揄ったような態度も余人がしたのなら我慢がならないが、この将軍ならば話は別だ。
僅かに眉を顰めるだけの郭嘉に、夏侯惇は苦笑いを返した。

「ただ、おまえの嬉しそうな顔は滅多に見られるもんじゃないからな。・・・なぁ、そうだろう、孟徳?」

振り仰ぐと、ちょうと衝立の向こうから気難しげな顔をした室の主が現れた。

「氷の軍祭酒に遅い雪解け。それが噂の大本か、元譲」
「まぁ、噂などなんでもないだろう。問題は当人の認識だ」

静かな問い掛けに、夏侯惇は椅子から立ち上がると肩を竦めながら応じた。

「俺はその認識に、大きな差異を認めるがな」
「何のお話ですか?」

筆を持ったまま、郭嘉が見上げてくる。
除け者にされた童子のようなその表情に、年長者二人は顔を見合わせて小さく溜息をついた。

「仕方ないから気を配っといてやる」
「おまえも大概奉孝に甘いな」
「おまえほどじゃないがな」

密やかな笑い。
嘯く二人の内緒話は、むくれた軍師の耳には届かないまま。