司馬家の日常
開け放った窓から春風が入った。
母上が焚き染めた、兄上に似合いの涼やかな香の匂いがいっそう広がる。
けれど、その香を纏うべき人は今この部屋には居ない。
大殿の供として、宮中からそのまま出立してしまった。
兄上が有能であることは、誰よりも自分が知っている。
重用されるのは仕方ないということも。
それでも、兄上の不在は心を重く塞がせた。
怜悧で、ときには冷酷とさえ言われる兄上。
その兄上が、自分だけに見せてくれる優しい表情、甘い言葉。
きっと、父上や母上さえも知らないだろうと言い切れるそれら。
それがなくては、自分はまったく立ち行かない。
甘やかされているという自覚はある。
甘えを、許してもらっているという自覚も。
どれほど与えられても、兄上を望むこの飢えが満たされることはないけれど。
あの聡明で非情な人に許されているという幸運を。
それ誇りにして眠りにつく。
一刻でも早く、兄上が無事戻られるように。
夢の中でも、出逢えるように。



がしゃんと。
陶器の割れる派手な音が立て続けに響く。
回廊を歩いていた司馬懿は、その音に重い溜息をついた。
次子である司馬昭が、また癇癪を起こしているらしい。
司馬昭は自他共に認めるブラコンで、とにかく、兄の司馬師が傍にいないと覿面に機嫌が悪くなる。
その司馬師はつい3日前、大殿の供として近隣の山賊狩りに出立していた。
最近、気に入りの軍祭酒と出陣する機会のない大殿は、かなり鬱憤が溜まっていたのか。
山賊現るの報せを聞くと、たまたまその場に居合わせた者たちで急場の軍を編成し風を巻くように出撃してしまった。
司馬懿も御前に居たのだが、選ばれたのは大殿の計略と相性の良い弓部隊の司馬師だけ。
そして、帰宅する暇もなく出立した兄のことを知ると、自宅にいた司馬昭は激怒し、次に落ち込んだ。
春華などは兄弟仲が良くて宜しいなどと言っていたが、さすがにこの年になると多少行き過ぎではないかと心配になってくる。
そんなことを思い返しているうちに、再び派手な物音がして。
いい加減叱らねばならぬかと司馬懿が足を向けかけると、自室から勢い良く飛び出して来た司馬昭と鉢合わせになった。

「子上!何処へ行く」
「ああ、父上。御機嫌よう。ちょっと参内して来ようかと思いまして」

幽鬼のように蒼白い顔をした司馬昭の手には、藍色の小瓶。
それに見覚えのある司馬懿は、頭痛を覚えながら我が子を手招きした。

「ちょっと来なさい。その手に持っているものはなんだ?参内してどうするつもりだ」
「どうって、そうですね。軍祭酒殿か夏侯惇将軍あたりに盛ってみようかと」
「何を馬鹿なことを」
「馬鹿ではありません。大殿にも、大切な者が挨拶もなく突然居なくなる苦しみを味わっていただかないと」
「おまえの”居なくなる”は”永遠に”だ!その瓶を寄越しなさい!」
「いくら父上でも駄目です。失礼、先を急ぎますので」

身の軽い司馬昭は、迫ってくる司馬懿の手をひらりとかわすと軽やかに駆け出す。
誰か止めろと、慌てて人を呼びかけた司馬懿の声に、涼やかな声音が重なった。

「父上、昭。何をなさっているのです?」
「兄上!」
「子元」

戦装束のままの司馬師が、呆れたように蒼灰の目を細めている。
だが、弟の手にある小瓶に気づくと、ちらりと司馬懿を見て小さく息を吐いた。

「兄上!お帰りになられたのですね!」
「ああ、予定より早く終わったのでな。まずは真っ直ぐ戻ってきたのだ」
「そうですか!お怪我などはありませんか?お疲れでしょう、すぐに湯船の用意をさせて、そうだ!昭がお体を解して差し上げますね!」

先ほどまでの幽鬼のような有様が嘘のように、頬を上気させてにこにこと司馬昭は言葉を重ねる。
それに頷きながら、司馬師は弟の右手を指した。

「その小瓶はどうしたのだ?」
「ああ、これですか?もう必要ありませんので」

言い切ると、まったく興味を失ったようにぽいっと小瓶を放り投げる。
慌てて受け止めた父を視界に入れて苦笑した司馬師は、弟の黒髪をそっと撫でた。

「昭。おまえが私を心配するのはよくわかっているが、あまり過剰なことはしてくれるな。私の立場を悪くしたいのか?」
「とんでもありません!私はいつだって兄上のことが一番ですから」

兄の腕に腕を絡めて、司馬昭は機嫌良く歩き出す。
遠ざかる息子たちの後姿を眺めながら、司馬懿は再び重い溜息をついた。
手の中には藍色の小瓶。春華特製の猛毒入りの。

”仲良きことは美しき哉”

妻の笑顔を思い出して、曹魏の鬼才は複雑そうに眉を下げた。



「兄上」

呼びかけられて顔を上げる。
執務室の入口に、笑みを浮かべた弟の姿。

「なんだ、昭。仕事はどうした」
「もう終わりました」
「ならばさっさと帰れ」
「いやです」

やけにきっぱり返された応えに、司馬師は胡乱に眉を顰める。
その様子に少しだけ困ったように微笑むと、司馬昭は真っ直ぐに歩み寄った。

「兄上のお傍にいさせてください」
「私はまだ仕事が溜まっている。見れば分かるだろう」
「私がお手伝い致します。だから、兄上のお時間を少しだけください」

黒手袋の外された繊細な手が延べられて、灰色の髪を優しく撫でる。
情の篭ったその動きに、司馬師はあからさまな溜息をついた。

「昭!」
「兄上、兄上は昭がお嫌ですか。お嫌ならば、どうか殺してください」

演技や駆け引きではない、向けられるのはいつだって素の心情。
溢れるほど与えてきた情けは、その倍返しになって司馬師を溺れさせようとする。
黙したままで居ると、細い指先が誘うように口元に触れて。
見つめてくる蒼い目に、仕方なく薄い唇を開いた。


分の悪さはそのままに。
甘やかされたものの強さと、甘やかしたものの弱み。