司馬家の長子として、誰に恥じることなく生きてきた
  己の選択を、誤りだなどと思ったことは一度もない



司馬師は、名門司馬家の長子として何不自由なく育てられた。
多くの者が羨む立場だが、それは常に衆目の監視に晒されているのと同じこと。
賞賛と中傷は表裏一体。
だが、聡い司馬師は己の立場を弁え、常に上のみを目指して励んできた。
”理のみを以って言動を為し、過ぎたる情など不要のもの”
それが、いっそ冷酷とも言える徹底した司馬師の信条だった。
だが、その信条にはたったひとつの例外があった。
司馬師の3歳年下の弟である司馬昭である。
司馬昭は線の細い子供で、幼少から身体が弱く体格も並より劣っていた。
司馬師は、この繊細な弟を常日頃から気にかけて良く面倒をみた。
司馬家の子息が、どんなことであろうと他から軽んじられてはらなぬという強い気概があった。
そして、どうせ余計な情など持ちあわせぬのなら、持てる情けはすべて弟に注ぐのも悪くはないとも。
その考えに基づいて育てられた司馬昭は、当然のことながら兄にべったりの子供になった。
父よりも母よりも兄を優先する。
司馬家の子息らしく、頭の回転は悪くない弟が無邪気に慕ってくるのは司馬師にとっても厭うことではなく。
司馬師と司馬昭のふたりは、近すぎるほど近い互いの距離を、当然のこととして成長した。
やがて、成人の年を迎えた司馬師は、母の薦める女性と褥を共にした。
ただの通過儀礼のひとつであり、また、母の言いつけに従っていれば間違いはないとの確証もあった。
だが、次の日、屋敷に帰ってきた司馬師を待ち受けていたのは、目を真っ赤に腫らした弟だった。
司馬昭は兄に抱きつくと、一瞬、不可解に顔を歪め、そのまま強い力で自室へ引っ張り込んだ。
そして、嗅ぎ慣れた涼やかな香が漂う室内で、司馬師を抱き締めたまま疲れ切って眠るまで泣き続けた。
呆気にとられた司馬師は、特に抵抗もせず弟のやりたいようにさせていた。
やがて目が覚めた司馬昭は、顔を赤くしてひたすらに謝った。
まだあどけなさの残る弟の心底申し訳なさそうな表情に、司馬師は軽く小言を言うだけにとどまった。
それからその件については、お互い口にすることもなく。
平穏な日々を重ね、3年の月日が過ぎ去った。
成人となった司馬昭は、褥の相手に兄と同じ女性を望んだ。
さすがに皆難色を示したが、普段我侭を言わない司馬昭の強い望みに厳格な母も終に折れ、司馬昭の望みは兄への強い尊敬の現われとして受け入れられた。
司馬師はその成り行きを、口を挟まずに傍観していた。
祝い事であるはずなのに、胸の隅に忘れかけていた小さな引っ掛かりが蘇った。
脳裏に、3年前の泣き腫らした弟の顔が鮮明に浮かぶ。
理由のない胸騒ぎに自嘲して、司馬師はその夜は早々に床に就いた。
そして。
まだ夜の明け切らぬ未明過ぎ。
廊下を歩く乱暴な足音に司馬師は目を覚ました。
闇の中に、人の気配。
それは、眦を赤く染め、艶やかな黒髪を乱した弟だった。
兄上、と。
白く、細い手が伸ばされる。
その手が己の襟元を割り、首筋をそっと撫でるのを司馬師は冷静に感じていた。
兄上、お嫌ならば昭をお切りください、と。
懇願するような声が耳元で聞こえる。
そのまま唇を唇で塞がれ、温かな舌が差し入れられ。
突き放そうと手を上げた司馬師は、その途端、鼻先に香った嗅ぎ慣れない甘い香りに動きを止めてしまった。
兄上、と。
熱に浮かされた司馬昭の声が頭に響く。
力でも体格でも弟に劣るものなど何一つないにも拘らず。
司馬師はその夜、弟の未熟な欲を受け入れた。

あれから数年。
司馬昭は、誰に見劣りすることもない立派な青年に育った。
それでも、兄がいなければ生きる意味もないと平然と口にするほどの性格に変わりはなく。
そして、拒み損ねた関係も変わることがなく。



「兄上、何を考えておられるのです?」

詰るような声。
身内に穿たれた熱に乱暴に突かれ、一瞬息を詰めた司馬師は口元を苦笑に歪める。
そのさまに、司馬昭は細い眉を泣きそうに顰めた。

「兄上…」

乱暴に兄の身体を暴くくせに、いつだって幼子のように司馬昭は不安定だ。
言葉と行動のちぐはくな弟に、司馬師は今度は優しく笑んで手を差し伸ばした。

「おまえのこと以外、考えてなどおらん」

母譲りの端麗な顔が嬉しそうに綻ぶ。
逃がしはしないとでも言うように、司馬昭は汗に濡れた兄の身体を強く抱き締めた。



  司馬家の長子として、誰に恥じることなく生きてきた
  己の選択を、誤りだなどと思ったことは一度もない

  生きるに情が不要であるならば、


  情けはすべて、彼のために