言えない言葉
机上に広げられた地図を挟んで差し向かう。
瞼を半ば落として考えに沈んでいた人は、おもむろに目を上げると真っ直ぐにこちらを見た。

「そうだな。おまえの言うとおりだ。その案を採ろう」

発せられた明晰な声に、ほっと胸を撫で下ろす。
だが、それも束の間。

「私は此処へ兵を伏せる。士載はこちらへ」

指差された位置を見て、思わず眉を顰めた。

「それはなりません。場所を取り替えましょう」
「駄目だ。おまえには此処を守ってもらわねばならない」
「ならば、軍祭酒もお下がりください。貴方が囮のようなことをなさる必要はありません」
「このほうが効率が良い。それが分からぬおまえではないだろう?」
「それならば、私も前線に兵を伏せます!」

思いがけず尖ってしまった声音に、涼やかな眸が僅かに瞠られた。

「士載?」

戦に関しては妥協のないこの人に、何を言っても無駄かもしれない。
それでも引く気にはなれず、口をついた勢いのまま地図の一点を指し示した。

「私も此処に兵を」

再び沈黙が落ちる。
らしくもない強気が後悔になり始めた頃、目の前の人は緩やかに口元を綻ばせた。

「おかしな奴」

そのまま、小さく声を立てて笑う。
とても、綺麗な笑みだった。

「そこまで言うなら構わない。言いたいことがあれば遠慮なく言え。これでも、私はおまえを買っているのだ」

意見は、拒否されなかった。
そればかりか、初めて優しい言葉をかけてもらえた気がした。
それ故に、少しばかり舞い上がって。
先ほどは言わなかった言葉の続きが、喉元まで出掛かった。

「此…」
「失礼します、郭司空軍祭酒殿。そこにケ士載将軍はおりますか?」

室に響く柔らかなアルト。
優雅な挙措で現れた叔子は、軍祭酒に満面の笑顔を向けた。

「申し訳ありません、軍祭酒殿。士載将軍をお借りしてもよろしいでしょうか」
「ああ、構わない。もう話は終わったところだ」
「え?い、いや、」
「士載殿。例の件、お忘れではないでしょう?お時間を頂きたいのです」

叔子が『例の件』と言えば、呉の陸幼節殿に関することだろう。
最近、自分は魏呉連合の推進役を務めている。
何時の間にそうなったのか良くわからないが、推進に懸ける叔子の気迫は凄かった。
それだけ、幼節殿に会いたいのだろうと解釈する。
ただやはり、何故自分が推進役になっているのか未だに不明だった。
ひとつだけ確実なのは、この連合がなれば、叔子の無言の圧力から解放されるということ。
正直、まだ軍祭酒と話したい事柄もあったが、促されるまま席を立った。

「…では、失礼させていただきます」
「ああ、ご苦労。それにしても、士載」
「は」
「おまえは叔子ととても仲が良いのだな」

他意の感じられない軍祭酒の口ぶり。
その静かな笑みとは裏腹に、心臓がズキリと冷たくなった。
立ち止まった俺の手を強く引いて、叔子は華やかに笑う。
焦ると上手く言葉が紡げないせいで、結局、引き摺られるようにして無言のまま退出した。

「なんて顔してるんですか?」

廊下に出ると手を放して、叔子が見上げてきた。

「泣きそうになっていますよ?」
「そ、そんなことはない」

目元に手をやって、顔を顰める。

「お、…私は、ただ、軍祭酒に伝えていないことが、」
「伝え忘れですか?何を?」
「それは…」

喉元まで出掛かった、言葉の続き。


『此処ならば、いざというときに貴方を守れる。
 私は貴方を、守りたいのです』


「……」
「士載殿?」
「………」
「士載殿、如何されたのですか?」

声に出さなかったことに、幸運を感じた。
きっと、こんな言葉は一笑に付される。
あの人の周りの、誰よりもまだ頼りない自分では。

「どうしたんです、また陰鬱になって。鬱陶しいからやめてくださいね」

背中を押される。
惰性のように、ただ漠然と歩き出した。

『私は貴方を、守りたいのです』

嘘ではない。
なのに、


言えない言葉