ヨーコの日記

ヨーコの日記@

暦は3月になった。
季節はだんだんと春めいて、木々にも新芽が芽吹き始めている。
そして、私の近くにもひとり、遅い春を迎えているものがいる。
誰あろう、ケ士載将軍だ。
不精髭を生やした精悍な顔立ちに、鍛え上げられた体躯を持つ彼は、平素は誰に憚ることもない威を保っているというのに。
近頃、良く共に出陣する軍師殿に対しては、可笑しな程引き腰になっている。
引き腰、及び腰、気が引けている、云々。
言葉はなんだって構わない。
とにかく、彼の人の前に出ると、普段は押し隠している素の部分が、まるきり透けてしまっている。
武力・知力ともに申し分ないくせに、極度の上がり症で、口下手で、うっかりすると引篭りになりそうな。
そういう、必死に隠しているはずの、彼の他愛無い本性が。
司馬兄弟に気付かれでもしたら、何を言われるか分かったものではない。
見ているぶんには面白いから、私は別に構わないんだけれども。
そして、さすがに士載殿も、そこまでの莫迦ではないんだけれども。
…莫迦ではないはず、なんだけれども。
彼の人を意識しすぎている自分自身のことを、きっと、少しも理解してはいないのだろう。
遅すぎる春ほど、怖いものはない。
まったく、よりにもよって、断崖絶壁、高嶺の花だ。
大殿の存在を、知らないはずではないだろうに。
忠告、などするのは馬鹿馬鹿しく、何も言うべきことなどないけれど。
しばらく様子を見ることにする。
万に一つ、もしかして…、が絶対ないとは限らないし。

ああ。

それにしても、外は春だ。
誰も彼も、浮かれている。

幼節殿は、
今頃何をしているのかな…



ヨーコの日記A

3月も早1週間が過ぎた。
三寒四温と言うけれど、春らしい陽気は本当に気まぐれだ。
そして、まるでその天候のように、先に話題にした人物も感情がまったく落ち着かないようだ。
この前は久々の休暇だと言うのに、今にも降り出しそうな曇り空のように鬱々としていた。
原因は、どうやら自分と張遼将軍を比較してのことらしい。
けれど、同じ神速号令を持つ将軍同士、比べられるのは今に始まったことではない。
そもそも、彼はそう言ったことには無関心な性質(タチ)なのに。
まぁ、はっきり言ってしまえば、例の軍師殿に張遼将軍より頼りにならぬと言われたことが堪えたようだ。
こういう時、特に仲の良い訳でもない私のところへ来て、ただ黙りこくっている士載殿は、やっぱりちょっとした変わり者だろう。
私に、助言を求めているわけでもないんだろうに。
もしかして、直球に内心を抉ってやったほうが良いんだろうか?
いや。
大きな図体の男が、鬱々と沈んでいるのは見た目にとても可笑しい。
やっぱり面白いから、しばらくは放っておくことにしよう。

そんなことより、来週はホワイトデーだ。
先月、甘いものがお好きな幼節殿のために、とびきりのチョコレートを贈って差し上げた。
なにか、返礼をもらえるだろうか。
私は別に、見返りを期待して贈ったわけではないんだけれども。
浮かれているご婦人方の気持ちが、ちょっとだけわかる気がする。
ただ、私は品物よりも、幼節殿にお会いできさえすればそれで……

………。

そうだ。
士載殿なんて、相手は同じ国なのだから、ずっとずっと幸せ者ではないか。
ああ、莫迦莫迦しいったらない。
絶対、傍観者を決め込もう。



ヨーコの日記B

春爛漫という陽気になった。
でも、私の気分は陽気でもなんでもない。
一向に、幼節殿とお会いできる機会がないのだ。
先だっては、梅の香のする幼節殿らしい優しい御便りをいただいたのだけれども、やっぱり、手紙だけではなくご本人にお会いしたい。
魏呉連合の旗振りをお願いしてある士載殿に、もう少し発破をかけてみようか。

士載殿と言えば、昨日、彼の方が私のところへ捨て犬を持って来られた。
大殿に、その犬が士載殿に似ていると言われたらしいのだけれど。
"士載殿に似ているから私に渡す"と言う、その根本的に誤った認識は如何なものか。
大殿を筆頭に、周りの方々はお分かりのはずなのに、誰も注意をなさらないのか。
まぁ、そういう私も、知らぬ振りをしているのだけれども。
婉曲に何を言っても、恐らくあの方には通じないだろう。
軍略以外には興味を示さないとは聞いていたけれども、噂以上の無頓着振りが窺えた。
それでも、少し、不思議に思う。
凡そ不似合いな仔犬などを拾ってしまった、あの方の心情を。
今日、多少気になって様子を伺ってみたら、あろうことか、犬のことを『犬』と呼んでおられた。
なんと名前を付けたら良いのか、分からないのだという。
差し出がましいかとは思いつつ、名前を提案して差し上げた。
あの方は何の頓着もなく、その名を採用してしまわれた。
本当に、何にも考えておられないらしい。
一昨日から野外調練に出ている士載殿は、確か今日帰還の予定。
とりあえず、どんな間抜け顔をするか、絶対に見逃さないようにしなくては。
幼節殿にお会いできないのだから、私にもこれくらいの楽しみがないと。

そうそう。
犬の名は、「艾(もぐさ)」
きっと、愚直なまでの番犬になるはず。



リッコの日記

珍しいお酒が届いた。
叔子殿から。
寒い地方でしか出来ない、特別な葡萄からつくったというお酒。
とても甘くて、とても美味しかった。
優しい香りは、まるで叔子殿のようだと思った。

手紙には、ほんの少しだけ、日々の職務に対する疲れがみえた。
それは本当に、珍しいことで。

“貴方の微笑みがあったなら、明くる朝にはすべてを忘れられるのに”

叔子殿の笑顔こそ、人を癒せるはずなのに。
私の笑みなど、この手紙の価値にすら悖るのに。
遠い許昌を思って、胸が痛んだ。
だから。
父上に、笑顔の代わりに贈れるものはないかとお尋ねした。
父上は、その訳をお訊きになって。

「おまえのその優しい気持ちは、祈ることで彼方へも届こう」

穏やかに微笑まれると、そっと、頭を撫でてくださった。

叔子殿、お元気でおられますか。

私はいつも、この孫呉の地から、
あなたの平穏を祈っています。



ヨーコの日記C

幼節殿から手紙が届いた。
一緒に、“開運のお守り”と言うものが同封されていた。
いろいろ、なんとなく。
私の送った手紙がどういうふうに解釈されたのか予測がついた。
幼節殿のお優しい心遣いは嬉しいのだけれども、やはり直接お会いしなければ埒が明かないようだ。
そのためには、あの鬱陶しい父親をどうするかが大問題なのだけれど。

鬱憤を晴らすといえば、この頃の話題はあの捨て犬だ。
相変わらず無頓着な飼い主殿は、首輪すら用意する気配がないようなので、橙色の可愛らしいリボンを贈ってさしあげた。
もっさりした感じの大型犬の仔犬に、はっきり言ってリボンは似合わない。
けれども、案の定、飼い主殿は頓着なく首に結ってしまわれた。
最初は、嫌がる素振りを見せていた艾も、最近は諦めたようだ。
諦めきれないのは、寧ろ、士載殿のよう。
「艾」と名がついた犬を初見した時も、相当なショックを受けていたようだけれども、リボン付きの艾は、どうにも決まりが悪いらしい。
おまけに飼い主殿は、意外にも、橙色のリボンが艾に似合っていると思われている。
どうやら幾分、変わった感性の持ち主でいらっしゃるようだ。
まぁ、いくら艾に似合うからと言って、士載殿にリボンが似合うだなんて思ってはいないだろうけれども。
それでも、士載殿は気にかかるらしい。
予想通りと言うか、なんと言うか。
立派な形(なり)をしていても、神経は繊細に出来ているようだから。

そういえば、飼い犬や猫に、実在の者の名をつけて呼んでいれば、やはりその者のことを思う時間も増えるだろうか。
艾の飼い主殿にはまったく当て嵌まっていないようだけれども、一般的にはきっとそうだろう。
私も、幼節殿に、私の名をつけた愛らしい猫でも贈ってみようか。
……いや。
やはりその前に。

あの父親をどうにかしなければ……



ヨーコの日記D

今日はハロウィンだとかで、登城するには何らかの化け物の仮装が義務付けられていた。
まったく、この国の主(あるじ)のお祭好きには本当に感心してしまう。
面倒くさいと言えば面倒くさいけれども、仮装を自由に選べる私はマシなほう。
一部の人間は、主が指定し作成させた、特別製の衣装を纏わねばならないのだから。
登城して、今年は誰がその迷惑な栄誉に授かったか、訊かずとも一目で知れてしまった。
大きな耳に、ふさふさした尻尾。
両手には、ぷにぷにした肉球がついた手袋。
「犬ですか?」と尋ねたら、本人は至って真面目に「狼男だそうだ」と答えた。
「いや、どう見たって犬でしょう」とは、流石に重ねて言わなかったけれども。
主が何を考えたかバレバレ。
けれども、周囲の微妙な空気の中、毎年強制的に衣装を誂えられるというただひとりの人は、
「狼か、似合っているな」などと。
微塵の疑いもなく、暢気な感想を述べていた。
当のその人といえば、普段の黒い着物は黒い長衣の重ねに変わり、黒髪には銀の髪飾り、手には銀の長い鎖。
死神だそうだけれども、狼男と並べば、大きな犬とその飼い主の魔女にしか見えやしない。
黒い翼を持つ悪魔に扮した主は、暫くその光景を楽しんでいたようだけれども、やがて死神を傍らに呼ぶと、いつもの喰えない表情になった。
悪魔と死神の装束が、対になるように作られているのは一目瞭然。
さすがにそれには気づいたのか、狼男は少し哀しそうな顔をした。

まったく、主の性格の悪さには恐れ入る。
けれども、それを補って余りある求心力がこの方にはあるのだろう。
それに。
死神の衣装は、悪くなかった。
柔らかそうに纏わる幾重の生地は、きっと幼節殿にも似合うはず。
それならば闇のような黒よりも、深い、綺麗な藍色が良いと思った。

甘い菓子など要らないから。
一時でもいい、
彼に会いたい。