『 邂逅 』

軍師と言う生き物に、馴染みはなかった。
長らく仕えた主は、武にしか重きを置かぬ無双の将。
それでも確かに、場違いな軍師がひとりだけいたが、我等と接することなど殆どなかった。

なのに、ここはどうだ。
刀の一薙ぎで倒れそうな奴らが、武装とも言えぬなりで前線まで出てくる。
覇王と、それを支える軍師たち。
中でもとりわけこの男は、神経質そうな容貌(かお)にそぐわぬ策を出した。

「それをこの俺になせと?」
「出来ぬと思うなら退かれても良い」
「それでいいのか?」
「構わぬ。貴方を買い被った己の不明を恥じるだけだ。他を当たろう」
「本気か」
「本気だ。ただ張遼将軍」
「なんだ」
「討って出るならば、私に従え」

鬨の声と蹄の音が響く中、振り返れば、黒衣を纏った白面が見据える。
『蹴散らせ』と。
その薄い唇が、迷いのない笑みを象った。

百戦錬磨の武将らに、したり顔で指揮を執る。
覇王と、それを支える軍師たち。
中でもとりわけ、王の寵篤きこの男は……

「面白い。俺の武を見極められるか」

軍師と言う生き物に、初めて興味を引かれた。
千里を見通すと言うその眸を、この俺が暴く醍醐味を。



『 日常と非日常 』

常にきっちり整えられているはずの冠は乱れ、ほつれた黒髪が幾筋も白い首元に垂れている。
暴漢に襲われたのだと言っても過言ではない。
そんな恰好の知己が室に飛び込んできたのを、荀ケはいつもの穏やかな笑みで迎えた。

「そう怒るな、奉孝。殿は天邪鬼な童子のようなところがおありだ。愛しい者を、つい苛めてしまうのだよ」

ほら、大体そんなことをされるのは、おまえと夏侯惇殿くらいだろうと。
諭すように言われて、郭嘉は眉を顰める。
なら何故貴方はされないのだと、言いかけた言葉は呑み込んで、ぐしゃぐしゃに乱された冠を外した。

「兄(けい)も一度、背後から不意打ちに飛びつかれて揉みくちゃにされれば、そのようなことは言えまい」

向こうっ気が強い郭嘉を宥めるように、笑んだまま荀ケは奇麗な茶筒を取り出した。

「張遼殿からの頂き物だ。北部でとれる珍しい茶葉だそうだよ。ぜひ奉孝と一緒に賞味してくれと」
「私と?何故に?」
「さあ?本人に訊いてみてはどうかな」

優雅な手つきで茶を淹れる荀ケを、郭嘉は釈然としない思いで見つめる。
心を落ち着ける涼やかな香に、新茶の微かに甘い香りが重なった。



『 裏と表 』

回廊を歩く、黒衣の姿。
性格そのままに、真っ直ぐに背を伸ばし。
けれど、いつもは峻厳にすら見えるその白面は、少しだけ和らいで傍らの連れへ向けられている。

「荀ケと郭嘉か」

新緑の木々越しにその姿を眺めていた張遼は、不意にかけられた声に、それでも驚くことなく振り向いた。

「殿」
「何を真剣に見ているのかと思ったら」

拱手する新参の将を片手で制して、曹操は軽く笑う。

「面白いか?」
「…軍祭酒殿は千里眼の持ち主と伺います。千里眼とは、どこまで見通せるものなのかと考えておりました」

静かな応(いら)えに、歩み去る軍師たちに目を向けていた覇王は視線を戻す。
武骨な武将の手には、小奇麗に包まれた小さな箱。
そのあまりの不似合いさに、赤く透ける不思議な色の眸がゆるりと細められた。

「あれの千里眼は、戦のみよ。戦以外のことには殆ど気も付かん奴だ。お前も大概、粋狂だな」

黙したまま微かに笑う相手に、曹操は心底面白そうな笑みを浮かべた。

「好きなだけ試すがいい。ただし、好奇心猫をも殺す、だ」

楽しげな表情にそぐわぬ言葉をさらりと吐いて、ひらひらと手を振って。
遠ざかる覇王の背に、張遼は再び恭しく拱手した。



『 天然ふたり 』

「ああ、落っこちてしまいましたなぁ」

状況にそぐわない呑気な声に、郭嘉は眉を顰める。
それでも差し出された手を大人しくとると、ずぶ濡れの沓で庭石に立った。

「裾もかなり濡れてしまいましたなぁ。どれ、絞りましょうか」
「いや、結構………荀攸殿、聞こえておられるか?」
「はいはい、聞こえていますよ」

屈み込んだ人は、そう応えながらも手際よく黒衣の裾を纏めて水気を切る。
半ば諦めて、郭嘉は所在無くその背を見つめた。
特別押しが強いというわけではない。
寧ろ、腰が低過ぎる感のある荀攸だが、容易に自らの意思を曲げさせない何かがあった。
不必要に、他人を気負わせない何かも。
だから、郭嘉はされるがまま、広い庭と足元の浅い池を眺めやった。

「郭嘉殿、考え事に熱中されるのもいいが、足元にも気をつけたほうがいいですなぁ。もう、何回目ですかな」
「…3回目か?」
「私が知る限りでは4回目ですなぁ」

あはははと軽い笑い声がそよ風にのる。

「…幸い、殿には見つかっていない」
「そうですか」

出来ましたよと言って、山吹色の衣を纏った人は身を起こす。
早めにきちんと乾かしてくださいと付け足すと、素直に頷いて黒衣の背は司空府へと歩き出した。

「殿が気づいてないわけないと思いますがなぁ…あの将軍はどうだか…」

戦(いくさ)しか頭にない同僚を見送りながら、荀攸は人のよさそうな笑顔を浮かべる。

「まぁ、なるようになりますか」

惚けた呑気な呟きに、池の鯉がぽちゃんと跳ねた。



『 術数 』

回廊の向かいに、威風堂々たる姿が見えた。
黄金(こがね)と朱で彩られた鮮やかな鎧。
一騎当千の猛々しい将でありながら、双眸に深い思慮の光を持つ男。
勇猛な武は、戦において欠くことは出来ぬ。
その人品も卑しからざるは明らかであるのに。
明快であるはず本質が、何故(なにゆえ)か良く呑み込めない。
知らず物思いに沈んでいたのか。
いつの間にか、目前にその姿があった。

「先日は荀ケ殿に、将軍からの貰い物だと言う貴重な茶を頂いた。礼を言う」
「なんの。お気に召されたか」
「とても。…ところで、あの茶は荀ケ殿への贈り物であろう。何故、私の名まで出されたか?」

浮かんだ疑問が口をつく。
目の前で、吊り上った眦が鋭く細まった。

「分からぬかな?」
「生憎」
「軍祭酒殿は、千里眼の持ち主と伺った。その目を以ってして読むことは出来ぬか?」
「私が千里の先を見るのは、殿のお志が常に千里先をゆかれるから。それ以外に益はなく、それ以外は興もない」

分からぬ、と言外に告げる。
しかし、常には動揺を見せぬ双眸が、驚いたように僅かに瞠られた。

「さらりと凄いことを言う」
「…何か可笑しなことを言っただろうか?」
「……いや」

遥か高い位置から人の顔を見下ろしておいて。
判別のつかぬ笑みを浮かべると、堂々たる将は再びゆったりと歩き出した。

面白い、と。

小さな呟きなら、耳に届かないとでも思ったか。
憮然としたものを腹に抱えて。
もう振り向きもしない広い背に、絶対に届かない言葉を投げつけた。

「貴方の方が、余程に可笑しい」