蝉の声が煩い。
文机にべったりと突っ伏した司馬昭は、恨めしげな目で窓の外を見やった。
嫌になるほどの青空が視界に入る。
ぽっかり浮かんだ白い雲は、外へ出て水浴びでも如何?と誘っているとしか思えない。
なのに目線を転じると、机の上にはまだ処理しきれていない竹簡の山。
思いっきり顰め面をして、司馬昭ははあぁと大きな溜息を吐いた。
たぶんおそらく。
この程度の仕事の量、本気を出せばあと一刻程度で終わるはず。
だが、この茹だるような暑さと嫌味なほどの晴天が、室内で筆仕事に精を出す気力を根こそぎ奪っていた。
夜に片付ければいいんじゃね?と、口元をへの字にしながら考える。
提出は今日中と言われたが、急ぎだとは言われていない。
思いつきは瞬く間に正当化され、そうとなれば善は急げと、筆を放って勢い良く立ち上がった。
まさにその瞬間。

「何処へ行く?」

背後から聞こえた声に、ギクリと背筋を強張らせる。
振り向いて確かめなくても、声の主は明らかで。

「あ、兄上…」
「仕事はもう終わったのか?」

咎めるでもない、いつもどおりの平坦な口調。
だが、心に疚しさがある司馬昭は冷や汗を流して返事をした。

「い、いえ、まだ終わってはないんですがね」

司馬師の視線が、文机に注がれるのを感じる。
出来る限りの平静を装って、司馬昭は兄を振り返った。

「あんまりにも暑いんで、ちょっと水でも飲もうかと思って」
「侍女を呼んで持ってこさせればいいだろう。冷えた水菓子くらいはつくかもしれんぞ」
「そりゃそうですが、気分転換ですよ」

そう言った途端、切れ長の眸が胡乱に眇められる。
それに慌てて両手を振って、ちょっとだけですってと司馬昭は言い募った。

「ほら、こんなのあと一刻もあれば終わります。今日中に兄上にお渡しするという約束は守りますよ」
「当然だろう。だが、昭。どうせおまえのことだ。残りは夜にして、水浴びにでも行こうとでも思っていたのではないのか」

ずばりそのまま言い当てられて、呆気に取られて目を丸くする。
その間抜け面を見た司馬師は、あからさまに溜息をついてみせた。

「…だって、夜でも今日中は今日中でしょう?」
「別に咎めてはいない。ただ、おまえのそれが終わらぬと、私の仕事も進まぬだけだ。自分の分は、予定より早く終えてしまったのでな」
「う」

言外に早くしろと催促している兄に、司馬昭はがっくりと肩を落とす。
水浴びは無理だと悟ると余計に暑さが増して感じられ、額からつつっと汗の玉が流れ落ちた。

「わかりました、さっさと片付けます」
「昭」
「はい?」
「暑いのか?」
「はぁ?」
「随分、汗を掻いているな」
「そりゃそうですよ。さっきからそう言ってるじゃありませんか。そりゃ、兄上はいつだって涼しそうなお顔をなさってますが、俺は汗だくです」

目の前の司馬師は、きっちり着込んでいるくせに涼しげな見た目のままだ。
この人の神経はどうなっているんだと内心に愚痴ったところで、白い指先がぺたりと額に触れた。

「熱い」
「暑いですからね」
「そんな肌蹴た格好をしているくせに」
「着込んでいる兄上が普通じゃないと思いますよ」
「私だとて暑いのだぞ」
「とてもそうは見えませんが」

問いかけに軽口で返した司馬昭は、不満そうに小首を傾げた司馬師に目を細めた。
茹だった脳みそで、ああ可愛いなと悦に入る。
身内だけで居る時の兄の気取らない仕草が、司馬昭は大好きだった。
だが、次の瞬間、司馬昭は思わず目を剥いた。

「あ、兄上?」
「ほら、私も熱いだろう?」

襟元を寛げて細い首を露わにした司馬師は、さっと弟の手を取るとそれを己の首筋に当てた。
真っ白で滑らかな肌は、少し湿っていて指の腹にぴたりと吸い付く。
その感触は、真昼間に相応しくない記憶を司馬昭の脳裏に蘇らせた。
矜持が高い司馬師は、高位の身分に相応しく、人目に肌を晒すことを極端に厭う。
どんな美姫にも負けぬ白磁のような肌を目に出来るのは、そして、人形のようなそれがちゃんと生きた人間のものであると理解できるのは…。

「昭?」

こくりと喉が鳴った。
しっとりとした肌を余すところなく堪能し、欲のまま触れられるのは閨の中でだけ。
それ以外を絶対に許さないくせに、びっくりするほど無頓着にこのような振る舞いをした兄に、司馬昭は無性に腹が立った。
暑さで苛立っていたのかもしれない。
不思議そうな表情のままの司馬師をぎゅっと腕の中に抱き込んで、黒髪に隠れた耳朶に唇を寄せた。

「駄目ですよ、兄上。俺のほうがずっとずっと熱い。ね、分かるでしょう?」
「し、昭、苦し」
「…俺の熱で、溶けてしまえばいいのに」

ぽつりと小さく呟いて、噛み付くように湿った首筋に歯を立てる。
痛いと抗議の声が聞こえたが、構わず強く吸い続けると、地肌が剥けるほどの勢いで乱暴に髪を引っ張られた。

「い、いででででっ!!禿げる禿げるっ!!!」
「離せっ!」

怒声とともに胸を突っぱねられる。
僅かに踏鞴を踏んで涙目を向けると、襟を強く握り締めて眦を真っ赤にした司馬師と目が合った。

「兄上、」
「熱いのは良く分かったわ、この馬鹿めがっ!」

激昂すると父の口調に似る司馬師に、状況を鑑みず司馬昭はつい口元を緩める。
目敏く気づいた司馬師は、吊り気味の目をよりいっそう吊り上げて弟を睨みつけた。

「すみません、兄上。でも、兄上だって悪いんですよ。餓えた獣の前で無防備な振る舞いをするから」
「……」
「…本当にすみません。反省してます」

ぺこりと頭を下げると、きつく引き結ばれていた唇が微かに緩む。
ほんの少しの間を空けて、司馬師は艶やかな笑みを浮かべた。

「おまえを獣だなどとは思っていない。その証拠に、獣には出来ぬ判断が出来よう?」
「え?」
「私だとて暑い。だがおまえの熱は不快ではない」
「!!」
「夜の時間を仕事に費やすか、それとも別のことに費やすか。私はどちらでも構わぬがな」

まさしく華のようなかんばせに誘うように微笑まれて、司馬昭に選択肢などあるはずもない。
小さく肩を竦めて頭を掻いて、すぐに降参とばかりに両手を挙げた。

「兄上のお時間、いただきますよ?」
「結構。だがそのためにはまず、おまえがそれを手早く片付けねばな」
「了解」

いつも通りすっかり司馬師のペースに持っていかれて、司馬昭は苦笑いしか出てこない。
兄を想う気持ちが大きすぎて、いつだってそれを簡単に手玉に取られてしまう。
所詮は惚れたほうが負けなのだ。
一歩踏み出してやけくそ気味に蒼味を帯びた黒髪に口付けて、司馬昭はさっさと文机に戻ると、乾いた筆を溶かし始めた。

「見ててくださいよ、半刻で終わらせてみせますから」
「手抜きは許さんぞ」
「わかってますって」
「…冷えた水を持って来るよう、侍女には伝えておこう」
「ありがとうございます」

気持ちを切り替えて真剣に仕事モードに入った司馬昭は、広げた書簡の文字を素早く追い始める。
だから、気づかなかった。
部屋を出て行った司馬師の頬が、暑さではない熱に赤く染まっていたことを。
冷静を繕っていた眸が、うっすらと潤んでいたことを。
廊下に出て虚勢を捨てて、司馬師はほっとしたように細く息をつく。
首筋に当てた掌がまるで焼けるようで。

「…馬鹿め」

柳眉を顰めて呟く。
その甘い響きは、茹だるような暑さよりも、さらにいっそう熱を煽った。