両手の花
司馬懿から愚息・昭の教育係にと抜擢された時、どんな人物なのだろうと元姫は一抹の不安を抱いた。
名家の子息という地位に胡座をかいた、人としてダメな人物であれば、いくら尊敬する司馬懿の頼みであろうと断るつもりでもいた。
けれど、実際の司馬昭は愚鈍とはほど遠い、司馬家の者らしい明晰な人間だった。
怠け癖があり、すぐ「めんどくせ」と口にするせいで周囲の誤解を招いているが、本質を見抜く力のある元姫からすれば、それさえ優秀な実兄との権力争いを嫌った演技なのではと疑ったくらいだ。
残念なことに、その怠惰な性格は演技でも何でもなかったのだが。
それでも、司馬昭は本当に面倒くさい事態を引き起こしそうな時は迅速に対応したし、父や兄の迷惑になるようなことは絶対にしなかった。
司馬昭の問題点は怠惰癖。
そして何より、心を許した者への依存症。

「何をしているの、子上殿」

廊下の段差に腰掛けて、ぼやっと庭を見ている司馬昭に声を掛ける。
一応問いかけたが、答えを聞かなくても大体は知れた。
もし司馬昭に犬のような耳と尻尾がついていたなら、くったりと元気なく垂れているに違いない。何か、主の機嫌を損ねるようなことをしてしまったのだろう。
主とはこの場合、兄の司馬師だ。

「子元殿に怒られでもした?」
「怒られたわけじゃない。けど…兄上、機嫌が悪ぃんだ」
「機嫌を悪くするようなことをしたんじゃないの」
「そんなこと…!」

反論しかけて口ごもる。
その様子に、元姫は予測を確信に変えて言葉を続けた。

「そういえば子元殿、今朝はお顔色が優れないご様子だった。少し怠そうにも見受けられたけど」
「……」
「何か、余程無理をなされたのかしら」
「………」

あああと唸って頭を抱え込んだ司馬昭に、元姫ははぁっと小さく息をついた。

「また、やらかしたのね」
「俺だって自制してるんだ。兄上のご負担になるのは分かってんだから。けど、兄上だって悪いんだよ、あんな婀娜っぽい顔するからっ」
「まさか、それを言ったわけではないわよね?」
「い、言えるワケないだろ。兄上に嫌われちまう…」
「子上殿…」
「元姫〜!どうしよう?どうしよう、兄上に嫌われちまったら!!」

がばっと顔を上げて縋ってくる大きな体に、つい苦笑いが漏れる。
明るい栗色の髪をそっと撫でてやると、司馬昭は僅かばかりの安堵を眸に浮かべた。
司馬昭の問題点は、依存症。
父・司馬懿への依存、教育係であり許嫁でもある元姫への依存。そして誰よりも、兄である司馬師への依存。
特に司馬師への依存は、依存という枠を超えた、謂わば強烈な執着を帯びていた。
夫となるはずの、そしてそれ相応の愛情を与えてくれる人の、実兄に向けられた許されざる異常な欲。
最初このことに気づいた時、さすがの元姫も大きな衝撃を受けた。
けれど、兄との関係を知られたと分かった時、動揺し顔色を失った司馬昭は、それでも真っ直ぐに元姫と向き合って選択肢を差し出した。

兄を誰よりも愛している。だが、元姫のことも誰よりも大切に思っている。このまま黙ってこの関係を続けるか。此処を出て行くと言うのなら、止めることは出来ないけれど。

なんて身勝手な言い分だろうと元姫は呆れた。
けれども結局、元姫は残った。
司馬昭には、人を惹きつける天与の魅力がある。そして、司馬師にも元姫に対しても、司馬昭の気持ちに嘘偽りのないことは明らかだった。
言葉の通り、司馬昭は兄を誰よりも愛している。けれど、女性としては元姫を一番に想っている。
元姫はもともと、司馬師を心から敬愛していた。
司馬昭が彼の害とならぬなら、彼が弟を許しているのなら、現状の維持が最良なのだろうと判断した。
何の得にもならない、むしろ負の要因しかない関係を、聡明で時に冷酷な司馬師が続けているのは、偏に弟の熱情に圧されているのだろう。
元姫はそう考え、また司馬昭もそのことを理解していて、兄への恋情を人前では絶対に表に出さず、ちょっと抜けた頼りない弟を演じ続けていた。
元姫の前でしか、自分の本当の気持ちを吐露することが出来ない司馬昭。
元姫は、哀れな彼の共犯者になった。
誰に隠すこともない司馬昭と元姫の関係は、それこそ一兵卒にまで知れ渡るほど睦まじく、また敢えて知れ渡るように大っぴらに振る舞った。
もし、司馬兄弟の関係を誰かに知られたとしたら。誰かとまでいかなくても、元姫が知っていることを司馬師に知られでもしたら。
常に司馬家のことを念頭に置き、頂点を目指している司馬師は、きっと弟との関係を清算してしまうだろう。情と実利を秤にかけることすらしないに違いない。
兄を失うことを恐れる臆病な司馬昭を、元姫は守った。
何をも恐れぬ気丈な元姫を、司馬昭は慈しんだ。
内実を知って見れば、酷く歪な関係に見えたかもしれない。
けれど、司馬昭の誰にも言えない愚痴や惚気を聞いてやりながら、元姫は幸せを感じていた。
言葉にはしないが、このままこの関係を、譬え歪であろうともこの幸せを、守り抜きたいと考えていた。



こつこつと床を踏む音がする。
先ほどまで散々愚痴って甘えて、結局、司馬師に謝ってくると室を出て行った司馬昭が戻ってきたのか。
扉に背を向けて書棚を整理していた元姫は、戻ってきた室の主にわざと刺々しく声をかけた。

「おかえりなさい、子上殿。早かったのね。子元殿は許してくれた?いくら子元殿が魅力的でも、見境なく欲を押し付けているとそのうち本当に見限られるわよ」

ぱたんと扉の閉まる音がしたが返事はない。訝しんで振り返った元姫は、視界に入った姿にぎくりと硬直した。

「…子元殿」
「元姫。今の言葉は…」

言い淀むことなど滅多にない司馬師が、白い肌をさらに白くして凍りついたように見つめてくる。
逸らせないまま見返して、元姫はこくりと喉を鳴らした。

「元姫。おまえは知っていたのか?私と昭の関係を」

感情の伺えない、こんな時でさえ美しい声。
ひとつしかない答えを返すことが出来ずに、元姫は頭から血の気が引くのを感じていた。
目の前の人は、今この瞬間、司馬家の未来を計っている。
司馬家にとっての、最良の選択を。

「申し訳、ありません」

打ち拉がれる司馬昭の姿が脳裏を過ぎって、出した声が僅かに震えた。

「謝る必要などない」
「いえ。いえ、違うのです、子元殿」
「何が違うのだ?この不誠実な関係の何が?」
「ふ、不誠実だとしても、子上殿の想いは純粋です。お二人のことは、私の他に誰にも知られたりはしていません。本当です、子上殿は細心の注意を払っています」
「…昭がおまえに話したのか?」
「いいえ、知ったのは偶然でした」
「ふ、それで細心の注意とはよく言ったものだ」

切れ長の黒い双眸がきつく細められる。
その鋭利な冷たさに、元姫はますます血の気を失う心持ちになった。
けれど、ここで黙ってしまっては取り返しがつかないことになる。
自分の失態で、司馬昭を悲しませるなどまっぴらだった。

「子元殿、どうか、このことはお忘れください」
「忘れる?」
「私が知っているということを、忘れてください。無理は承知です。けれど、お願いします。どうかこのまま、子上殿を許してやってください」
「……」
「子上殿の怠惰癖は、私が責任を持ってなおしてみせます。私も子上殿も、貴方に迷惑をかけるような事は絶対に致しません。ですから、」
「元姫」

いつになく感情的に言い募ってしまった元姫を、司馬師の冷静な声が制す。
相変わらずの無表情な美貌に、元姫はツキリと胸の奥が痛むのを感じた。
どうしたらいいのか分からないなんて無様、自分が晒すなど夢にも思っていなかった。

「元姫」
「…はい」
「おまえは本当に、昭のことを愛してくれているのだな」
「……」
「それなのに、私と昭の関係を許すと言うのか」
「許すだなんて、そんな、」
「すまない。私は、昭のためにもおまえのためにも、昭との不道徳な関係は清算するべきだろう。それが筋だ」
「…っ!」

目頭が熱くなり、どうしようと、どうにもならない言葉だけが頭の中を渦巻く。
せめて、司馬昭が戻ってくれば。
今此処に現れてくれれば、少しは事態が好転しないだろうかと。
元姫は一縷の望みをかける気持ちで扉を見やったが、それは重く閉ざされたまま動く気配もなかった。

「すまない、元姫」
「嫌です」

発した声が涙混じりになる。
それを、元姫は忸怩たる思いで自覚した。

「謝罪など、欲しくはありません」
「だが、謝らせてくれ。おまえのような美しく聡明な娘が、昭のことをこれほどまでに想ってくれているというのに。昭のためにも、おまえほど相応しい相手はいないと分かっているのに」
「……」
「それでも私は、あれを手放すことは出来ない」

あまりにも穏やかな口調。
告げられた言葉が上手く呑み込めず、元姫は一瞬、ぽかんと間抜けな表情を浮かべた。

「子元、殿?」
「意外、という顔をしているな。私が昭の熱意に負けて、昭に引き摺られて、仕方なくこの関係を続けていると思っているのだろう?」
「…はい」
「昭も、同じように考えているのだろう?」
「そう、です」

ふっと、司馬師は笑みを浮かべる。
冷たい人形のようだった表情が柔らかく綻び、滅多に見ることのない悪戯めいた色が過ぎった。

「それで良い。あいつをつけあがらせると、碌なことにはならぬからな。精々私と、そしておまえの顔色を伺っていれば良い。元姫。おまえは昭には過ぎた娘だ。だが、そのおまえにも、昭はやれぬ」
「……」
「呆れたか?司馬家の嫡子たる者の言葉とは思えぬだろう。おまえの昭への想いが、私の口を軽くした。そういうことだ」

鮮やかに微笑む司馬師を見つめ返した元姫の、蒼褪めていた白い肌に薄紅が戻る。
大きな眸がゆっくり瞬きして。
緊張が切れた瞬間、丸みを帯びた滑らかな頬にぽろりと雫が零れ落ちた。

「…良かった」
「元姫…」
「子元殿。私は貴方と子上殿を、司馬家を、これからもずっと守ってみせます」
「……力強き言葉だ」

黒手袋の外された繊細な手が、そっと薄金の頭を撫でる。
慈愛に満ちたその仕草に、元姫は形の良い唇を綻ばせた。

「おまえは聡い。このことは、昭にはけして言わぬように」
「わかっています。ふふ」
「?」
「子元殿にかかっては、私までまるで子供のよう」







「なぁなぁ、元姫。最近、兄上と仲が良いよな」

晴天の昼下がり。回廊を並んで歩いていた司馬昭が話しかけてくる。
元姫は前を向いたまま、歩調を緩めもせず答えた。

「もともと子元殿とは親しくさせていただいている」
「そりゃそうだけど」
「それに、子元殿との対話は自分も研鑽される。せっかくあれほどの方が傍に居るのだから、子上殿も少しは見倣って、」
「ああ、はいはい、わかってるって!」

頭の後ろで組んでいた両手をぶんぶん振り回して、司馬昭は情けなく笑う。
立ち止まって睨み上げると、小言を言われると思ったのか、端正な顔がひくりと引き攣った。

「よ、よし!剣の鍛錬でもしよっかな。そうしよう、めんどくせぇけど!また後でな、元姫!」

大きな独り言を残して駆け出していく背中に、元姫は呆れて溜息を吐く。
ふと周囲を見渡すと、遠巻きにしていた女官たちから羨ましそうな目を向けられた。
両手に花、という言葉が漏れ聞こえる。
花は司馬兄弟、羨望されているのは元姫自身だろう。
けれど、本当に両手に花を抱えた人間は誰なのか。
臆病で甘ったれで、そして、誰よりも幸運な人間は。
颯爽と歩き出しながら、元姫は微笑む。

真実を知るのは、”花”ふたりだけ。