困った人
瀟洒な設えの司馬邸の客間に、何とも言えない沈黙が満ちる。
上座で鷹揚に足を組んでいるのは魏帝曹丕。
もてなす側に座すのは、司馬師と司馬昭。
久しぶりの休日を静かに過ごそうとしていた司馬懿は、朝も早くから訪ねてきた曹丕によってそのささやかな楽しみを奪われた。
たまには休養でも取れと言ったのは曹丕自身だというのに、何故、その当人がのこのこと一家臣の屋敷にやってくるのか。
年下の上司の意味不明な言動にお冠になった司馬懿は、御前に出る支度が済んでいないと言い張って曹丕を客間に押し込め、息子達に間を取りなさせた。
とばっちりを喰ったのは司馬兄弟である。
司馬師は日課の読書の時間を予定外に奪われたことに不満を抱き、呑気に寝ていた司馬昭はわけの分からぬまま引っ張り出された。
既に曹丕と兄の揃っていた客間に足を踏み入れた途端、回れ右をしたい衝動に駆られたことを思い出す。
そもそも曹丕は司馬懿に会いにきたのだから、誰が相手をしようと司馬懿が出てくるまでは満足しないのだ。
そして、普段は誰にでもそつない司馬師は、何故か曹丕にだけは愛想笑いの欠片すら見せようとしない。
司馬昭は持ち前の明るさとお喋りで場を保たそうとしたが、生憎曹丕の気に召すような話題の持ち合わせはなく、すぐに重苦しい空気が場を包んでしまった。
めんどくせ、と癖になっている言葉が口をつきかける。
さすがに気配を察した司馬師に睨まれたので、ぐっと呑み込んで深呼吸をした。

「ああ、それにしても今日の香は変わった香りがしますね。なんだか胸に痞えるようだ。入れ替えさせましょうか?」
「これは西域産の希少な香木だ。胸に痞えるとは残念だな」

口元を軽く歪めた曹丕がそっけなく応じたのに、司馬昭は驚いて目を丸くした。

「え、これ、曹丕様が?」
「仲達に持ってきてやったのだ。ああ見えて、奴は詩(うた)や香の嗜みは弁えているからな」
「いやぁ、申し訳ありません。俺はそういうのからっきしダメなもので」
「ふん。仲達め、育て方を間違えたか」

恐縮したように頭を下げる司馬昭に、曹丕は詰まらなさそうに息をつく。その途端、それまで黙っていた司馬師が眦を吊り上げた。

「お言葉ですが、昭は詩も香も人並み以上に理解致します。ただ、曹丕様とは嗜好が合わないのでございましょう」
「ほう。弟思いの言葉だな。だが、合わぬのなら合わせてみせるのも器量であろう。違うか?」

人形のように座していただけの司馬師の頬に血が上る。曹丕のきつい双眸が面白そうに輝いたのを、兄の隣の司馬昭は見逃さなかった。

「合わぬものを無理に合わせるなど司馬家の者は致しません」
「それが帝でもか」
「父がそのようなことを致しましたでしょうか」
「ふ、なかなか言うな。さすが仲達の子よ」

座から立った曹丕は、おもむろに司馬師の前に屈みこむと多少粗野な動作で細い頤を掬い取った。

「容姿も頭脳も嫌味なまでに父親譲りか。私におもねらぬところまでそっくりだ。腹立たしい」

腹立たしいと言いながらも、目には怒りの色など微塵もない。
顎を取られたままの司馬師は、逆らいこそしなかったが無言のままじっと睨み返した。

「曹丕様」

堪りかねた司馬昭が声を掛ける。
だが、耳に入らぬふりの曹丕は、向けられた視線を真っ向から見返したまま。

「曹丕様!」
「曹丕殿、何をしておいでか」

静かな声が、司馬昭の再度の呼びかけに被さった。
いつの間に現れたのか、客間の入口に眉間に深い皺を刻んだ司馬懿が立っていた。
その姿に気づくと、曹丕はさっと司馬師の束縛を解いて歩を進めた。

「その問いは私のものだ、仲達。主をこれほど待たせるとはどういう了見か」
「どうもこうも、本日、私は休暇をいただいておりますからな、”主”から」

近寄ってきた曹丕からついと身をかわした司馬懿は、嫌そうな表情を隠そうともせず言葉を続けた。

「真に臣下を慮る主なら、私めの時間を尊重してくださるはずだと思ったのですが」
「そう言うな。先の言葉は撤回しよう。実は私も今日は休暇なのだ」
「帝が休暇とは何事ですか」

呆れたような溜息に、曹丕は気を悪くした様子もなく口元に独特の笑みを刷く。
それを仕方ないというように見返して、司馬懿は息子達に下がるように命じた。
眦を吊り上げたままの司馬師の後に続きながら、司馬昭はほっと息をつく。
しばらく歩いて振り返れば、先ほどまでの重苦しい雰囲気が嘘のように司馬懿に話しかけている曹丕が見えた。

「あの方はいつになれば父上を解放するのか。まるで子供だ」

傍らで同じく立ち止まった司馬師が語気強く言い捨てる。
半ば無理矢理出仕させられた司馬懿が、先の丞相の嫡子である曹丕の教育係となったことを、幼かった司馬師は快く思っていなかった。
それを言葉にしたことこそなかったが、兄の心情をよく知っている司馬昭は苦笑いを浮かべた。

「もう父上は、あの方の教育係ではありませんよ」
「そんなことはわかっている」
「あの方にとって、父上はもっとずっと大切な存在となっているんでしょう。そう思えば、可愛いことじゃありませんか」

笑み混じりに続ければ、司馬師が呆気にとられたように蒼みがかった黒眸を瞠った。

「何を言っているのだ、昭?どこが可愛いというのだ。父上に対しても嫌味な物言いは相変わらずだし、」

その物言いは兄上と似たようなものですよと言いかけて、司馬昭は呑み込む。

「それに私に対するあの為さりよう。毎度のことながら不愉快だ。余程、私が嫌いなのであろう」
「ええ?!」

今度は呑み込めずに大声が出る。
煩そうに顔を顰めて、司馬師は軽く小言を口にした。
だが、今はそんなことよりも。

「兄上、兄上は曹丕様に嫌われていると思っておられるのですか?」
「思っているのではなく実際そうだ。おまえとて、先程は私を助けようと声をかけてくれたのだろう?」
「え?…はい、まぁ、そうです」

声をかけたのは助けると言うよりも、司馬師が触れられていることに我慢ならなかったからなのだが。
それに、嫌われているなどとはとんでもない。
曹丕は、司馬懿に似たところのある司馬師を気に入っている。
あの言葉と振る舞いは、天邪鬼な性格故だ。
司馬懿に対する日頃の行いを見ていれば、自ずと知れることであるのに。

「聡いのに、そういう肝心なことは気づかないんだよなぁ…」

思わずポツリと漏らす。
聞こえなかったのか、きょとんとした様子で首を傾げた兄に、司馬昭はああもう!と頭を掻いた。

「兄上のことは、絶対俺がお護りしますからね!」
「なんだ?急にどうしたのだ」
「どうしても!」
「おかしな奴だな。私はおまえに守ってもらわねばならぬほど弱くはないぞ」
「勿論知ってますけど…」
「だがその気持ちは、嬉しい」

ふわりと笑う。
自惚れではなく、自分にしか向けられない優しい兄の微笑みに、司馬昭はいつもながら頬を赤く染めて。
困った人だとの心からの感想は、口には出さずに胸にしまった。