兄と弟
今でこそ笑い話のようだが、司馬昭は幼い頃、体が丈夫なほうではなかった。
冷え込んだといえば喉を痛め、雨に打たれては熱を出した。
上層の家庭では、子供の世話に乳母や下女がつくのが当たり前。
司馬家も同様だったが、司馬昭は他人の手を嫌って、いつだって兄である司馬師の元に居たがった。
そうなると必然、司馬師がぐずる弟の面倒を看る羽目になる。
人手はあるのだから追い出しても良かったのだが、懐いてくる幼い弟に、多忙な父母に代わって肉親の温もりを与えることが己の義務だと。
自らもまだ十分幼いにも関わらず、司馬師はそう判断した。
司馬家の長男は、高い矜恃と相俟って責任感が人一倍強い。
己で決めたことなら尚更に。
たった3才違いとは思えないほど、司馬師は大人顔負けに弟の面倒をみた。
弟の多少の我儘も体が弱い故の心許なさだと大目にみ、弟を貶す者がいようものなら立ち直れないほどの打撃を与え。
春華よりも師が昭の母親のようだと大人が囃すのを、悪い気もせずに聞き流し。
虚弱だった司馬昭は、もはやその過去を誰も信じないほどに逞しく大きく育ってはいるが。
10年以上経った今も、この兄弟の基本的な関係は変わっていない。

「…兄上、怒らないで聞いて下さいよ」

今や見下ろす位置にある司馬師の顔を、上目遣いで見るという器用な真似をして。
大きな体を縮めた司馬昭が、それでもしっかりと目線を合わす。
怒らせるようなことをして怒らないで聞けなどと理不尽この上ない言い草だが、実際、この前置きで司馬師が怒るようなことは今までになかった。
謂わばこれは、兄におもねる司馬昭の口癖のようなもの。
本当に怒りを買うような事態の時は、大体本人に自覚はない。
半ば呆れも含んで見つめ返せば、司馬昭は小さく息を呑んだ。

「どうした?さっさと言え」
「あ、ええ、その」

妙に歯切れの悪い弟に、司馬師は柳眉を顰めて顔を近づける。
弟の目を良く見ようとするいつもの癖。
なのに、あろうことか、司馬昭はびくりと一歩後退さった。
一瞬呆気にとられて、次に司馬師は不愉快そうに眦を吊り上げた。

「す、すみません!ちょっとびっくりしたもんで」
「なぜ驚く?」
「や、だって兄上、やっぱりすごく綺麗だから」
「?」

幼い頃から才色兼備を褒められ慣れている司馬師にとって、今更ながらの形容詞だが。
それが司馬昭の口から出てきたことに、司馬師は小さな違和感を抱いた。
そして、すぐに原因に思い当たる。

「おまえが私の容貌について言及するなど、珍しいこともあるものだ」
「へ?珍しい、ですか??」
「綺麗などという言葉、おまえの口から初めて聞いた」
「え!?そうでしたっけ?」
「常に傍にあるものは、当たり前になるというからな。そういうものだろう」
「そんなことないですって!当たり前だなんて思ったことないですよ。兄上が俺の兄上であることを、いつだって感謝してるんですから。それに、」

母譲りの大きな目を細めて、司馬昭は懐かしむような笑みを浮かべた。

「俺が認識してる一番古い記憶は、兄上が俺に向けてくれた笑顔です。なんて綺麗なんだろうって、ガキながらに感動した覚えがある。そっか…ああ、そういうことなんだな」

後半、ひとりで何かに納得して大きく頷いた弟に司馬師は小さく首を傾げた。

「わかるように話せ」
「俺の中で兄上ほど綺麗な人はいないってのが常識になってるから、わざわざ言葉にしなかったんだと思います。当たり前でも、それは当たり前の奇跡ですから」
「わかるように話せと言った」

文脈のおかしい言葉を連ねておいて、司馬昭は兄の指摘にきょとんとした表情になる。
続けて、へへへと幸せそうな笑みを浮かべるものだから、司馬師は諦めて溜息をついた。
この笑顔に、己が弱いことを司馬師は良く知っている。
だが悟られるのは癪なので、目を逸らすとそっけなく問いかけた。

「それで、謝らなければならない理由はなんだ。用件は手短にしろ。私は忙しいのだ」
「はい、その、兄上が綺麗だってことなんですけど」
「……」
「誰よりも綺麗だって俺は本気で思ってますからね!だから、つい、口をついて出てしまったんです…」
「何が」
「今度の百花繚乱戦、頂点に立つのは絶対兄上だって」

百花繚乱戦。
そういえば、そんな催しが行われると聞いていた。
確か、中華一の美女を決めるという趣旨ではなかったか。
能面のように無表情になった司馬師に、司馬昭は慌てて両手を振った。

「中華一の美人を決めるんです!だったら兄上以外いないでしょう!?綺麗な上に強いだなんて!絶対、兄上が勝ちますよ!」
「それで、誰ぞと賭けでもしたというわけか。馬鹿馬鹿しい」

真相を突いた一言に、司馬昭は顔を引き攣らせてがっくりと肩を落とした。

「お前が自分で出ろ」
「何言ってるんですか。美人を決めるんですって」
「ならば、元姫に頼めば良いだろう」
「そりゃ元姫も可愛いですけど、一番は兄上です。さっきも言いましたけど、俺の中の一番綺麗はいつだって兄上なんですから」

”綺麗”と。
弟の声で繰り返される耳慣れない単語に、司馬師は僅かな戸惑いを抱いて唇を噛む。
返事を待っている司馬昭の日に焼けた頬が、期待にか、赤く染まっていて。

「…馬鹿が。だが、私が出るからには必ず頂点をとるぞ」
「兄上っ!!」

司馬昭はぎゅっと兄に抱きついた。
幼い頃によくしていた仕草。
体格が逆転した今では、抱きつくというより抱き締める格好になっているが。
ぽんっと明るい栗色の髪を撫でて、司馬師は気取られないように苦笑する。
聞き慣れない弟からの賛辞に、単純に気を良くした己が不可思議で。
そして、もう庇護しなければならない弱い存在ではないにも関わらず、いつまで経っても弟の甘えを許してしまう己がおかしくて。

「三つ子の魂百まで、か」
「兄上?」

昔、大人たちから母親よりも母親らしいと囃されたことを思い出して、司馬師は弟の頭を引き寄せる。
背伸びをしなくてはならなかったが、昔のように額に優しいキスを落とした。

「さぁ、話は終わりだ。おまえは自分の鍛錬に戻れ」
「……」
「昭?」
「あ、はい」

何か言いたげに口を開きかけて、そのまま閉じた司馬昭は笑顔を残して部屋を辞す。
赤く染まったままのその顔を、司馬師は微笑ましい思いで見送った。