情人節
情人節などと言う、どこの国の風習だか分からぬ下らぬ行事など、これまでの人生で一度も気にかけたことはなかった。
そう。
今日というその日、
たった今までは。

つい先ほどまで、司馬懿は張コウに捉まっていた。
なにがそんなに楽しいのか。
少々浮かれ気味の将軍は、綺麗に包装された赤い箱を持ち、己が軍師に対して滔々と情人節について語って聞かせた。
「司馬懿殿はばかばかしいとお思いかも知れませんが。こういう行為ひとつで、心が温まることもあるのですよ」
呆れが表情に出ていたのだろう司馬懿に、張コウは控えめに笑いかける。
けれど、その切れ長い眸は雄弁に、「徐晃殿へは如何なされるのです?」と問うていた。
本来なら、「馬鹿目が!」と罵倒ひとつで、このような話に付き合う義理などないはずの司馬懿の。
その本意を見抜く洞察力に、薄い唇が思い切り不愉快そうに歪められた。
それをどう取ったのか。
張コウはにこやかに笑いながら、小さな紙切れを握らせて。
「ここへ行けば、今からでも美味しい巧克力が手に入りますよ」
ひらりと。
まさに蝶のように身を翻して走り去る長身に、司馬懿は今度こそお馴染みの罵倒を投げ掛けた。
手にした紙切れは、強く握り締めたまま。

そして、結局。
なにやら上手く唆された気はするが。
閉店間際だったその店に駆け込んで、巧克力を手に入れた。
どのようなものが良いのか分からずに、張コウが手にしていたものと同じようなものを買う。
だが、買ったはいいが、今度はこれをどうすればいいのか途方に暮れた。
徐晃のために買ったのだから。
さっさと当人に渡してしまえばいいのだろうが。
なんと言って渡せば良いのか、まったく思い浮かばない。
張コウはなんと言っていただろうか?
赤いハート型の小箱を手にしたまま、司馬懿は眉間に皺を寄せた。
考えれば考えるほど、だんだん腹が立ってくる。
何故、己がこのようなことで思い煩わねばならぬのか。
半ば逆切れて肩を怒らせながら歩く司馬懿に、擦れ違う者達は驚いて身を竦めた。
『冷血』と。
悪名を轟かす軍師が怒りを湛えたさまに、好んで声をかけるツワモノなどあるはずもなく。
けれど、周囲の状況にも気づかぬままきつく唇を噛んでいた司馬懿は、いつの間にか見慣れた室の前まで来てしまっていた。
「・・・ただ渡せばよい。それだけではないか」
己でも納得出来かねる結論を口にして、手にした小箱に目線を落とす。
そのとき、不意に扉が開いて、中から部屋の主が現れた。
「これは、司馬懿殿。ちょうど良かった!」
向けられた晴れやかな笑顔とは裏腹に、司馬懿は驚きの余り手にした小箱を取り落としてしまった。
「おや?これはもしかして情人節の巧克力ではござらぬか?」
すぐに身を屈めるとそれを拾い上げ、徐晃はそっと持ち主へ差し返す。
「司馬懿殿も女官から貰われたのか。・・・まぁ、当然でござるな」
「あ、ああ・・・」
「拙者はあまり巧克力と言うものを好まぬので、毎年遠慮させて頂いているのでござるが」
「えっ?そうなのか?!」
反射的に漏れた高い声に、驚いたように黒い眸が瞠られた。
「え、ええ?それがなにか?」
「い、いや・・・」
小箱を袂に仕舞いながら、司馬懿は急激に気分が悪くなった。
張コウの軽口に乗ってしまった己の浅はかさがとてつもなく恨めしく。
やり場のない怒りで苛々が募る。
むっすり口を引き結んでしまった司馬懿に、徐晃は少々躊躇うように声をかけた。
「あの・・・それで、司馬懿殿」
「なんだ」
「確か、司馬懿殿は甘いものを好まれましたな?」
「そうだが、それがなにか」
下級の文官なら怖気づくほどのそっけない口調で。
けれど、徐晃はそれを気に留めることもなく。
僅かな間を空けて、司馬懿の目の前に綺麗に包装された包みを差し出した。
「お口に合うか分からぬが。拙者から司馬懿殿への気持ちでござる」
「なんだ、これは?」
「だから、情人節の巧克力でござるよ」
照れたように笑う人に、司馬懿はぽかんと口を開ける。
「え?だって・・・?」
「情人節とは、本来は男女を問わず、大切に思う人に心を込めて巧克力を贈る日と聞き申した。だから拙者は、司馬懿殿にお渡ししたかったのでござる」
差し出した包みをなかなか受け取らない司馬懿に、徐晃は少し困ったように笑った。
「女官達からたくさん贈られている司馬懿殿には、今更かも知れませぬが」
「そっ、そんなことはないっ!」
引っ手繰るようにして大きな手から包みを受け取り、司馬懿はそれを両手でぎゅっと抱き締めた。
「これが良い!これ以外の物などいらぬっ」
「司馬懿殿」
「つ、謹んで頂く・・・」
小さく呟いた言葉に、満面の笑みが返されて。
張コウの言ったことが、嘘ではなかったのだと気がついた。
それにしても・・・。
袂を軽く押さえて、司馬懿は俯いた。
「徐晃殿。私は、その・・・情人節のことを良く知らなくて。貴方には・・・」
「気になさるな。拙者が勝手にお渡ししたいと思っただけ。司馬懿殿から何か頂こうなどとは思ってはござらぬ」
「徐晃殿」
「それより、喜んで頂けて本当に良かった」
勝手に納得してしまった徐晃に、司馬懿は少しだけむっとして。
けれど、いつでも決して己の矜持を傷つけぬ彼の人の心根に、つい僅かに頬が緩んだ。
「司馬懿殿のお好みに合うようなものを探してはみたのでござるが。食してみられるか?ちょうど、良い緑茶も手に入ってござる」
「頂こう」
返礼の日があるのなら、あとで張コウに聞いておかねばと思う。
そのときはちゃんと、彼の人の好みを考えて贈り物を選ばねばと。


微かに笑う。

溢れる温もりで溶けてしまうほどに、
大切な『気持ち』を抱き締めて。