いちばんのおくりもの
 昼間の喧騒が嘘のように、夜の帳に包まれた城内には静寂が落ちる。
 居残って仕事をこなす、己のような文官はそれなりにいるはずだけれども、押し殺した話し声さえも、まるで夜闇に溶けてしまったかのように耳を煩わせることはない。
 息を潜めたようなこの空気が、司馬懿は殊の外好きだった。
 集中していれば周囲は関係ないとは言え、煩雑な諸事に悩まされる日中では、なかなか思うように仕事は捗らない。
 脳内での緻密な作業を必要とするからこそ、静かな環境と言うのは絶対条件だった。
 だから、司馬懿は夜を好む。
 広いこの城内で、己一人しか居ないような錯覚も、慣れてしまえば悪くないものだった。
 ただ、最近は少しだけ気になることがある。
 朝も夜も早い、健全を絵に描いたような男が、日々深夜まで仕事を止めない司馬懿の事を気にかける。
 自分の仕事は終わっていると言うのに、室に顔を出しては、なにくれとなく世話を焼く。
 鬱陶しい、と。
 以前の己なら、間髪入れず追い出したはずなのに。
 いつの間にか、顔を見るのが当然になっていた。
 「無理なさるな」と言う小言めいた言葉を、知らん顔で受け流して。
 そんなやりとりが、既に日常になっている。
 気にしてない素振りはしているけれども、それでもやはり、本当は気になっていた。
 真っ直ぐな心根のあの男が、あまりにも真剣に己のことを心配するから。
 困ったような笑顔が脳裏に浮かび、たまには早めに切り上げるかと、司馬懿は走らせていた筆を置いて席を立った。
 書庫から持ち出した竹簡を一纏めにして抱え上げ、静まり返った廊下を歩く。
 暖を取っていた自室とは違い、完全な外気とも言えぬのに廊下は随分と寒かった。
 この分では雪が降るやも知れぬと、寒さが苦手な司馬懿は忌々しく思いながらも借り出した竹簡を手早く元に戻していく。
 作業を終えて、誰も居ない多少埃っぽい書庫を出たところで、ふとした違和感に足を止めた。
 書庫の対面にある、小さな室。
 普段は書物の閲覧に使われているその室の、しっかりと閉じられた扉の隙間から、ほんの少し灯かりが漏れていた。
 こんな遅くまでこのような場所を使っている者がいるのかと、幾分訝しく思って扉を押し開いた。
 廊下と大差ない冷気が肌に触れる。
 狭い室内に暖を取る道具はなく、設えてあるのは簡素な机と椅子が二対だけ。
 そのうちのひとつに、唯一の結燈台の薄灯かりに照らされて、見慣れた背中がうつ伏せていた。
「徐晃殿」
 驚いて、歩み寄る。
 背中越しに覗き込むと、机に片頬をくっつけた人は、ぐっすりと熟睡しているようだった。
 手元には、読みかけであろう紐解かれた孫子。
 明らかに、読書の途中で眠くなってそのまま・・・と言った状態の。
 司馬懿は呆れ返ってため息をついた。
 今日だとて、早く帰れと散々お節介を焼いておきながら、自分はこんな所でこっそりと勉強しているとは。
 あまつさえ、この震えるような寒さの中で転寝など、どう言う神経をしているのかと疑いたくなる。
「徐晃殿、起きられよ。風邪を召されるぞ」
 軽く肩を揺すってみても、深く寝入った人は目覚める気配もない。
 強硬手段に出ようとしたが、目に入った寝顔が余りにも心地良さそうで、振り上げていた拳を躊躇った。
 このままにしていては風邪を引くかも知れないが、だからと言って、起こさないまま移動させるのは、司馬懿の膂力では無理と言うもの。
 迷った挙句、所在なく肩先に手を下す。
 纏う者の心根を映したような白い衣越しに、指先をあたためる温もりが伝わった。
「子供のような体温だ・・・」
 呟いて、広い背中に頬を寄せる。
 思ったとおりの温もりに、傍らの椅子を引き寄せて腰を下すと、背中から抱き込むようにして逞しい身体に腕を回した。
 冷え切って赤くなった指先を包み込むのは、いつも徐晃の役割。
 けれど、今くらいは逆の立場も悪くないと、ちょっとした悪戯ぐらいの気持ちで瞼を閉ざした。
 伝わってくるのは温もりだけでなく、体全体を包み込むように規則正しい鼓動が響いてくる。
 生きているのだなと当たり前の事を思って、頬をくっつけたまま小さく言葉を紡いだ。
「知っているか、徐晃殿。遥か西の国では、今宵、聖ニコラウスと言う聖者が、この一年良い子でいた子供らに贈り物を配るのだそうだ。目覚めると枕元に勝手に置かれているらしい。まったく、お節介な聖者もいたものだ」
 応えはないと分かっていて、いや、分かっているからこそ、微かに笑う。
「少し、貴方のようだと思う・・・。なぁ、徐晃殿。良い子でいたならば、私も贈り物を貰えようか?・・・来年も、私の傍に・・・・・・」
 最後のほうはくぐもって、聞き取れないほどの小さな声。
 聞かせるべき人は夢の中なのだから、それで構わないのだけれども。
 慣れぬ言葉を口にした司馬懿は、眦を赤く染めて些か乱暴に回した腕に力を込めた。
 それでも、規則正しい寝息と心音は乱れぬままで。
 少し癪に障る思いと共に、
 薄い唇には柔らかな笑みが浮かんだ。







 「う・・・重・・・?」
 背中に圧迫を感じて目を覚ました。
 意識が戻った瞬間、転寝をしてしまったと言う認識が湧いたが、背中が重たい理由には全く心当たりがない。
 しかも、温もりが伝わってくるその重みを不思議に思い、徐晃は出来るだけ動かないまま首を捻ってみた。
 その途端、思わず上げそうになった声を辛うじて呑み込む。
 よくよく見ると、自分の腰を抱くようにして、細い腕がしっかりと回されていた。
「司馬懿殿・・・?」
 なぜここに?とか、何でこんな体勢に?とか、疑問が頭の中を飛び交ったが、子供のように抱きついて眠る人の安らかな寝顔に、そんなことはどうでも良くなってしまった。
 普段、余り甘えてくれない司馬懿の、気紛れに見せる態度が嬉しい。
 無意識なら尚更で、目覚めればきっと「馬鹿目が!」と怒鳴るのだとしても。
 緩んでしまっているだろう顔を引き締めて、徐晃はゆっくりと体勢をずらした。
「すっかり冷え切ってしまって・・・。お風邪を召されたら一大事でござる」
 細心の注意を払って腕の中に抱えなおす。
 起きはせぬかと心配したが、穏やかな寝息はそのままで、安心しきっているその寝顔に、胸の内が温かくなった。
 室に戻れば暖も取れるだろうと、薄い身体をそっと抱き上げて椅子を立つ。
「冷えると思ったら、雪でござるな・・・」
 格子窓の外には、ひらひらと舞う白いもの。
 とりあえず、辿り着くまでは誰にも会わぬようにと。
 腕の中の大切な人のためにそう願って、徐晃は静かに歩を進めた。