どっちもどっち
 「キャーッ!!」
 絹を裂くような高い悲鳴。
 その声に驚いて、竹簡を抱え回廊を歩いていた司馬懿は足を止めた。そよと涼しげな風が吹く。その風に混じる錆びた鉄の匂いに、眦を険しくして駆け出した。
「如何なされた?」
 角を曲がり、次の回廊にまで辿り着く。目の前には青褪めた顔色の女官が一人、震える手で中庭を指差していた。
「し、司馬懿様。あ、あそこで、徐晃様が、」
 指し示された先に視線を向けて、司馬懿は榛色の目を大きく瞠った。
 高く聳える庭木の下に蹲っているのは、確かに女官の言う通りの者。
 しかし、その白い衣服の上半身は、鮮やかなまでに朱に染まっていた。
「徐将軍っ!如何されたっ?!」
 動転した司馬懿は、竹簡を放り出して廊下から飛び降りる。残された女官は、慌てふためいて散らばる竹簡を拾い集めた。
 そんなことには構いもせずに、長い朝服の裾をたくし上げるようにして、司馬懿は蹲る徐晃の傍まで走り寄った。
「ああ、司馬懿殿」
「何をなさっているのだ、徐晃殿?」
 左の二の腕を覆うはずの服は裂け、鉤状に切れた肌から結構な量の血が溢れ出ている。その赤が、白い装束をだんだらに染めて上げていた。
 常から悪い顔色を更に青褪めさせて、司馬懿はその姿を見下ろす。
 逃げ場のない強い視線を向けられて、徐晃は照れくさそうな笑みを浮かべた。
「・・・ちょっと失敗を」
「失敗?」
 言った途端、にゃあと頼りない鳴き声が聞こえた。
 無事な右手を懐に差し入れると、小さな黒い猫が一匹、ひょこりと顔を覗かせた。
 猫はビクビクと震えながら、それでも、徐晃を見上げるようにして逃げようとはしない。その頭を優しく撫でて、徐晃は嬉しそうに目を細めた。
「この仔猫が木から下りられなくなっていると女官に聞いたので、下ろしてやろうと思ったのでござるが。意外にも抵抗されたのと枝が細かった為に、落ちてしまったのでござるよ。おまけに、ちょうど切っ先のように折れた枝に腕が突き刺さってしまって。いや、真に面目ない次第」
 恥ずかしそうに告げられる言葉に、司馬懿は眦を吊り上げる。
 一瞬、何か言いかけた口を閉ざして、目にも止まらぬ早業で黒猫を掴み上げた。
「し、司馬懿殿?」
 驚く徐晃に返事もせずに、暴れる仔猫を握り締めて女官の居る廊下へ駆け戻る。そして、不機嫌さを隠そうともしない表情で、動揺している女官に仔猫を突き出した。
「面倒を見よ。粗末に扱ったら許さぬぞ!」
「は、はい」
 冷血と名高い軍師に睨まれた哀れな女官は、震える手で仔猫を受け取り平伏した。それに、更に竹簡を尚書台の荀令君のところまで持って行くよう言いつけて司馬懿は踵を返す。
 呆気に取られている徐晃の傍へ戻りながら、己の袖に巻いた飾り紐を解き、柔い正絹を引き裂いた。そして、その布を使って、ささけた傷口をぐるぐると乱暴に縛りはじめた。
「司馬懿殿・・・」
 お世辞にも器用とは言い難い手つきで黙々と手当てをする司馬懿に、徐晃は躊躇いがちに声をかける。
「出血は酷いが傷は大したことはござらぬ。そこまでしていただかなくても大丈夫でござる」
 上等な朝服を裂いてまでの手当てに、徐晃は恐縮して包帯を巻く手を押し留めようとした。しかし、それを振り払って、司馬懿は目の前の黒い双眸をきつく睨みつけた。
「馬鹿目が!破傷風にならぬと言い切れるのか?大丈夫などとは医者が決めることだ!」
「はあ・・・」
 怒鳴られて、徐晃は濃い眉を情けなく八の字に下げた。司馬懿は怒ったように力を込めて、包帯代わりの布をぎゅっと強く結んだ。
 軽い痛みに、徐晃は眉を顰める。しかし、不恰好に巻かれた包帯を見て、つい口元が緩みそうになった。
「何を笑っている!」
 目敏く気付いた司馬懿が、眉間に深い皺を寄せる。慌てて首を横に振って、徐晃は丁寧な礼を述べた。
「では、行こう」
「何処へ?」
「医者の処へ決まっているではないか」
「いや、医者に見せるほどでは・・・」
「さっきの話を聞いておられなかったのか?それは我等の決めることではない」
 未だ座り込んだままの徐晃を無理やり引っ張り起こすようにして、司馬懿は渋い表情を浮かべた。
「私の一寸にも満たぬ切り傷には大袈裟に騒ぐくせに。ご自分のことももっと気にかけられよ」
 早口でそう言って、司馬懿は背中を向ける。その背を引き寄せて、徐晃はそっと薄い肩に腕を回した。
「じ、徐晃殿?」
 後ろから抱き込まれる格好になった司馬懿は、慌てて周囲を見回した。
 真昼間の城内、誰が何処で見ているとも知れぬ。回された腕を解こうと手を伸ばしかけたが、傷を慮って僅かに躊躇った。
「放されよ。誰かに見咎められる」
「拙者は構いませぬ」
「・・・徐晃殿」
「司馬懿殿のお心遣いに、身も心も癒され申した。もう傷の痛みも感じませぬ」
 徐晃は浮き立つ心を押し隠して、穏やかに告げた。しかし、その言葉を聞いて、司馬懿は血相を変えて振り返った。
「馬鹿目が!それほどの傷で痛みがないなど、感覚が麻痺しているのだ!もたもたせずに、さっさと行くぞっ!」
 無事な方の手を強く引いて、司馬懿は駆け出さんばかりの勢いで歩き出す。
 一瞬浮かべた困ったような表情を、すぐに幸せそうな笑みに変えて、徐晃は大人しく引かれるままになった。
 あの仔猫は、少し司馬懿殿に似ていたのです、と。
 言いかけていた言葉は、胸のうちに仕舞い込んだ。

 結局。
 血濡れの将軍の手を引いて歩く軍師の姿は多勢の者に目撃され、あらぬ憶測と共に城内に流布することになった。