煩い
 劣勢を盛り返し、魏延の軍を退けた。
 己の幕舎に戻った司馬懿は、どかりと坐臥に腰を下ろし軽く瞼を閉ざした。
 本陣の曹操への伝令は既に済ませてある。後は、分断された連絡系統の復旧を急がせ、各将への統率を取り戻せば良い。数の上ではこちらが有利なのだから、事の次第はひとえに迅速さにかかっているといえた。
 要点を吟味して目を開けると、心得た古参の準将が、傍らで拱手して軍師の命令を待っている。それに畳み掛けるように命令を下し、漸く人心地ついたように息をついた。
 重たい兜を外しかけて、手の甲にある赤い切り傷に注意を引かれる。
 今更ながらに気がつくと、妙に痛む気がしてきた。しかも、血管を傷つけているのかまだ出血は止まっておらず、血は細い筋を引いて袖の中へ流れ落ちていた。
「司馬懿様、お手当てを致しましょう」
 護衛兵の声に頷きかけた司馬懿は、鎧の鳴る騒々しい足音に幕舎の入り口に顔を向けた。
「徐将軍」
 案の定、やって来たのは徐晃で、司馬懿は己を見下ろす黒い双眸を真っ直ぐに見返した。
「ご苦労であられた、徐将軍。貴殿の働き、主公にはよく伝えておこう。しかし、気を許されるな。諸葛亮めは、まだ諦めてはおるまい」
 滔々と上機嫌に言葉をかけた司馬懿は、見下ろしてくる目の光が少しも和らがないことに、内心でやはりなと呟いた。
 徐晃は、戦で司馬懿が突出することを好まない。
 司馬懿とて己の立場は弁えているし、好んで前線で打ち合いたいわけでもなかったが、だからと言って己の戦闘技量が大きく劣っていると思っているわけでもなかった。
 時と場合によるのだ。今日のような場合は、相手が悪過ぎただけだ。
 それでもきっと、徐晃は小言を言わずにはおかないだろう。心配されているのだと嬉しい反面、矜持の高い司馬懿は容易く礼を述べたりも出来なかった。
 だからいつも、適当に場を濁す。
 今回もそのつもりでいた司馬懿は、発せられた言葉に鷹揚に頷いた。
「司馬懿殿、もっと御身大切になされるよう、いつも申し上げてござる」
「わかっている。指揮系統が崩されれば軍の崩壊に繋がる。それだけは避けねばならぬからな」
「・・・・・・」
 いつもなら、困ったような表情を浮かべて念を押すように言い募る徐晃は、なぜか黙ったまま口を閉ざした。そのまま、数瞬押し黙る。訝しんだ司馬懿が僅かに首を傾げると、徐晃は唐突に細い手首を掴み取った。
「なっ・・・」
「怪我をなされたな」
「こ、このような傷、怪我のうちにも入らぬ」
 司馬懿は驚いて声に詰まった。徐晃がこのような無遠慮な行動に出ること自体異例な上、今は衆人環視の幕舎の中である。突然、軍師の腕を掴み上げた将軍に、忙しく立ち働いていた者達の目が集まった。
「血が止まっておらぬではござらぬか」
「か、掠り傷だ。舐めておけば治る」
「・・・・・・」
「徐将軍、離されよ」
 眦をきつくして睨み上げる司馬懿を見返して、徐晃は眉間に皺を寄せた。握られた手首の力は、弱まるどころか強くなる。
「徐将軍。徐・・・、っ!!」
 振り払おうとした司馬懿は、一瞬手の甲に痛みを感じて顔を顰めた。しかし、その原因となった温かい湿った感触に、今度は驚愕して零れるほどに目を見開いた。
 赤く流れる血の筋を追うように、徐晃の舌が陽に当たらぬ青白い手を這い下りていた。
「じ、徐将軍!!」
 ぞくりと背筋が粟立つような感覚に、悲鳴のような声が上がる。
「なっ、何をなされるっ!?」
 司馬懿は、漸く腕をもぎ取って傷を庇うように袂で覆い隠した。そのさまを見下ろして、徐晃は周囲の動揺と反比例した静かな声を返した。
「舐めておけば治るのでござろう」
「な・・・」
「失礼仕る」
 顔色ひとつ変えず踵を返した徐晃は、一切振り向くこともなく幕舎を出て行く。
 僅かの間、呆けたようにその後姿を見送っていた司馬懿は、注がれる視線に我に返った。
「早く手当てをしろ!」
 護衛兵に言い放ち、怒りを込めた視線で周囲を睨み据えると、動きを止めていた者達は慌てて立ち働き出した。
 いつもどおりの冷然とした面持ちを作って、坐臥に深く座り直す。
 完璧に繕った表面とは裏腹に、司馬懿の心中は嫌な予感が渦巻いていた。
 そして。
 概して、嫌な予感ほど良く当たるものである。
 蜀軍を撤退させ勝利に沸いた魏軍は、要所に張遼軍だけを残し、その他の主だった者たちは許昌へ帰還することとなった。
 そうして齎された日常は、司馬懿の心を苛み出した。
 目まぐるしく忙殺されていた時には然程気にならなかった、いや、気にすまいとしていた己に対する徐晃の態度。
 あの、らしからぬ行動をとった日から、どうも余所余所しく感じられた。傍目には、なんら変わりがあるとは見えなくとも、それは司馬懿には重大な変化だった。
 相変わらず、徐晃は優しい。
 しかし、それは万人に向けられるのと同等な優しさであって、その意味の違いを司馬懿本人は良く知っていた。
 何故の変化か、思い巡らせてもこれと言う確信はない。
 考えあぐねるのも疲れ果てて、その夜、職務が引けてから司馬懿は徐晃の室を訪れた。
「何か御用でござるかな」
 未だかつてかけられたこともないそっけない口調に、「用がなくては来てはならぬのか」と幼稚な反論が口に出かかる。それをぐっと堪えて用意した問いかけを発しようとしたが、静かな目に見つめられると、上手く言葉が出てこなくなった。
「徐晃殿・・・」
 名だけを呟いて、唇を噛む。
 数多の論客を論破してきたはずの己の醜態に、司馬懿は眩暈を起こしかけた。そして、それはすぐに理不尽な怒りへとすり替わった。
「私が何をしたと・・・・・・」
「司馬懿殿?」
「そうだ。私は悪くなどない。悪いのは貴方だ!一体、私が何をしたと言うのだっ?!」
 羽扇を突きつけるようにして言い放つ。感情の昂ぶりに赤く染まった眦を見返して、徐晃は僅かに眉を顰めた。
「・・・お気づきにならぬのか」
「え?」
 瞬いた司馬懿に背を向けて、徐晃は壁際の大斧を手に取った。床に腰を下ろしおもむろにそれを磨き始めた相手を、司馬懿は突っ立ったまま呆然と見下ろした。
「まだ何か御用がおありか?」
 掛けられた低い声音に我に返る。同時に、頭の中が沸騰したように熱くなって、急激に視界が歪んだ気がした。
「用など・・・ないわ」
 漸くそれだけ言い切って、徐晃の室を後にする。
 廊下に出た司馬懿は、苦しくなる呼吸を無理やり押さえつけて己の室まで駆け出した。
 室に飛び込み、坐臥に倒れ付すように身を投げ出す。
『落ち着け。落ち着くのだ!認めたくなかった結論が、現実になっただけではないか』
 冷静になるように何度も胸の内に繰り返し、乱れた呼気のまま歯を食い縛った。しかしその努力を嘲うように、閉ざした瞼の裏に、突き刺さるような黒い瞳が浮かんだ。
「嫌われた・・・。嫌われてしまった・・・。ただ、それだけのことだ・・・・・・」
 掠れた声が薄闇に溶ける。
 笑おうとして失敗した司馬懿は、己の頬が冷たく濡れるのをどうすることも出来なかった。


 もし、あの男が己を見捨てるようなことがあれば、絶対に許すものかと。
 詰って怒って怒鳴り散らして。
 事と次第によっては、その命さえとってやろうと。
 ずっと、そう思っていたのに。

 愚かなこと。

 結局、何一つ、出来はしなかった。



 「徐晃殿」
 日課の調練が終わって引き上げる準備をしていた徐晃は、背にかけられた声に振り返った。
「張コウ殿か」
「なんですか、その浮かない顔は」
 今日も煌びやかな蝶の髪飾りを飾った同僚は、描いたような眉を寄せて大袈裟に肩を竦めた。
「そのような辛気臭い顔をなさらないで下さい。兵の士気に関わります」
「そうは言うが、張コウ殿。拙者はもう見ておれぬでござる・・・」
 大斧を傍らに下ろし、肩を落として徐晃は頭を振った。
「今朝方も遠目に拝見したが、本当に真っ青な顔をしておられるのだ。拙者のせいなのだと思うと、居ても立ってもおられぬ」
 そう言う徐晃当人も、随分と冴えない顔色をしている。
「あと1日ですよ。1週間と決めたのは徐晃殿ではありませんか。司馬懿殿に反省して頂くのでしょう?」
「それはそうでござるが・・・」
 はぁと大きなため息を吐く偉丈夫を見兼ねて、張コウはそっと腕を引いた。
「室へ戻りましょう。ここは目立ちます」
「そうでござるな・・・」
 半ば上の空で頷いて、徐晃は歩き出した。
 『司馬懿殿に、反省して頂きたい』
 確かにそう切り出したのは自分だし、自分達の関係を知る張コウは真面目に相談に乗ってくれた。
 いくら繰り返し忠告しても身の危険を顧みない戦場での司馬懿の無謀さに、徐晃は心底心痛していたのだ。
 戦に安全などないのは分かっているが、せめて、その身を守る姿勢をとって欲しかった。先だっての戦でも、あの魏延を目の前にして、退こうとか身を守ろうとか言う態度が一切見られなかったのだ。
 駆けつけた時に目にした血も凍るような光景が、今でもはっきりと思い出せる。
 徐晃には、司馬懿が自らの命を軽んじているように思えてならなかった。
 軍師の頭の中には、戦に勝つことしかないのかも知れぬ。しかし、
『指揮系統が崩されれば軍の崩壊に繋がる。それだけは避けねばならぬからな』
 当たり前のようにそう答えた司馬懿に、徐晃は真剣に危機感を募らせた。
「大事なのは軍師ではなく、司馬懿殿自身なのだと、なぜ分かって下さらぬのか・・・」
 自室に戻って坐臥に腰を下ろすと、思い余った呟きが零れた。
「司馬懿殿が無謀なのは、徐晃殿が過保護過ぎると言う原因もあると思いますが。責任の一端は、貴方にもあるんですよ」
 優しげな容貌に似合わぬ張コウの手厳しい物言いに、徐晃はまた重い息を吐く。
 それはなんとなく分かっていた。
 だから、暫く距離を置くことで、司馬懿に内省して貰いたいと言う念があった。頭の良い司馬懿のこと、自らの行動を省みれば、その危険性と徐晃の懸念に気付くはずだと考えた。
 そう。
 どんなに強く思っていても。
 常に、傍にいられるとは限らないのだ。
 守りたくとも、手の届かない時があるかもしれぬ。
「・・・・・・」
 自分の両掌を見つめて、徐晃は眉宇を曇らせた。
「でも、まぁ。明日になっても司馬懿殿が何も言ってこないなら、謝りに行って下さいね。徐晃殿のお考えに異議は申しませんが、私はお二人が辛そうにしているのは嫌なのです」
 いつの間にか女官に茶を用意させていた張コウは、項垂れている室の主に茶器を差し出した。緑茶の芳醇な香りに、落ち込んでいた神経が癒される。
「かたじけない」
 受け取った茶を一口飲んで、徐晃は窓の外を見た。
 ここからは、司馬懿の居るだろう尚書台は、全く見ることが出来なかった。



 「・・・・・・?」
 目を開けた途端、米神が痛んだ。
 そういえばここ数日眠れていないのだと、司馬懿はのろのろと考える。それにしても、いまいち己の状況が把握出来なかった。
 目に映るのは見慣れた天井で、動かした指先には冷えた敷布の感触がする。
 自室の牀榻に横たわっているのは分かった。
 だが、しかし。
 先程まで、己は尚書台に居たのではなかったか?
「な、んで」
  声を出そうとすると、喉に引っ付いたような掠れた音になった。
「ああ。目が覚めたのか、仲達殿。そこの水を飲まれるといい」
 耳に届いた声に、今度こそ司馬懿は目を剥いて飛び起きた。
 一瞬酷い眩暈がしたが、何とか堪えて上半身を支え起こす。
「何を慌てているのだ。水差しは逃げないよ」
「軍祭酒殿・・・」
 元より青白い肌を蒼白にして、司馬懿は坐臥に腰掛けた人物を見つめた。その視線を受け止めて、郭嘉は形の良い唇を皮肉げに歪めた。
「な、何故、ここにおられる?」
「なんだ、覚えてないのか?そなた、吾の目の前で倒れたのではないか」
「倒れた?私が?尚書台で?」
 疑問符を連発する司馬懿に、郭嘉は面白そうに目を細めた。
「司空府でだよ。吾の目の前だと言ったであろう?」
「し、司空府?!な、なぜ?私は尚書台に行こうと・・・」
 混乱したように、司馬懿は両手で己の頭を抱え込んだ。
「記憶が曖昧な上に、夢遊病の気までおありか?仲達殿は、真面目に職務を果たす気はないとみえる」
「ち、違う」
「違わないであろう?大体、このように痩せ衰えて、真っ当に職務が果たせるとも思えぬ。骨と皮ばかりのようではないか」
 貴殿にだけは言われたくないと反論しかけて、司馬懿は再び襲ってきた眩暈に唇を噛んだ。
「反駁はさせぬよ。吾にも運べたのだ。即身仏にでもなるおつもりか?」
「・・・貴殿が運んで下さったのか」
「目の前で倒れた者を放ってもおけぬので」
 涼しい顔でそう告げて、郭嘉は端麗な貌に人形のような笑みを乗せた。
「何が気に入らぬのか知らぬが、もう少しご自分を大事にされることだな。明日は一日、休まれるが良かろう」
「それには及びませぬ」
 司馬懿は小さく、しかし強い声で即答した。
 何かしていないと気が触れそうになるのだ。
 頭が空になると、すぐにあの優しい笑顔を思い出してしまう。己を映さない黒い瞳に、浅ましく哀願してしまいそうになる。
 忙しさにかまけて、すべてを忘れていたかった。己の惨めさを認識する時間など、欲しくはなかった。
 女々しいその考えに改めて打ちのめされて、司馬懿は震える両手を握り締めた。
「人の厚意は受けるものだ。殿には吾から言っておく故」
「だから、要らぬ世話だとっ」
「休みは必要になるって」
 急に砕けた口調になった郭嘉は、猫のような双眸を細めて坐臥を立った。それに合わせたかのように、室の外に騒々しい足音が近付いてくる。
「では、吾はこれで」
 軽く紺衣を翻した郭嘉の目の前で、扉が勢い良く開かれた。
「司馬懿殿!ご無事かっ!?・・・っと」
 文字通り血相を変えて飛び込んできた徐晃は、思わぬ人物と鉢合わせて慌てて姿勢を正した。
「こ、これは郭嘉殿。失礼仕った」
「なんの、徐将軍。仲達殿は神経性の疲労であるから、明日一日休むよう薦めたところです。ゆっくり養生するよう、貴方からもよく言い含めて下され」
 ひらひらと手を振って出て行く郭嘉を、徐晃は拱手で見送る。
 その姿が回廊に見えなくなるまでそうしていた徐晃は、室の扉を静かに閉めて、牀榻の上の司馬懿に視線を向けた。
 呆然とした面持ちで瞬きもしない司馬懿の、間近で見る窶れ具合に驚いて、徐晃は急いで牀榻に歩み寄った。膝をついて、敷布に投げ出された手を取る。元から細身の身体ではあったが、異常とも言えるその痩せ具合に、徐晃は思わず息を呑んだ。
「なぜ、貴方がここに居る?」
 掠れた力ない声に、握った手に力を込めた。
「呼ばれたのでござる。司馬懿殿が司空府で倒れられたと、郭嘉殿の遣いの者に」
「軍祭酒殿に呼ばれた?ああ、だから来たのか。そうか・・・」
 口元に嘲るような笑みを浮かべた司馬懿は、真っ直ぐに見つめてくる黒い双眸に、何か言いたげに唇を震わせた。
 しかし、結局何も声にすることなく目線を逸らしてしまう。
 今日までのすげない態度を痛烈に非難されると覚悟していた徐晃は、黙ってしまった司馬懿の様子に眉を曇らせた。
 押し込めた怒りが予想以上に深いのだと推測して、胸が苦しくなる。
 自分で仕向けたこととは言え、矜持を傷つけられて痩せ衰えた司馬懿の姿は、徐晃に深い後悔の念を呼び起こした。
「すまぬでござるっ!」
 居ても立ってもいられず、床に両手を突いてがばりと平伏する。
「何を謝られる・・・?」
 微かに驚いたように司馬懿は目を見張った。
「謝られることなど、」
「司馬懿殿のお怒りはもっともでござる。このように苦しめるつもりなど、毛頭なかったのでござる」
「何を今更・・・」
「ほんの少し、司馬懿殿に考えを改めて頂きたかっただけなのでござる。拙者の拙い思惑で、理不尽な思いをさせてしまい、本当に申し訳なかった!」
 平伏したままの徐晃は、牀榻から見下ろす司馬懿が不審げに眉を寄せたことに気付かない。
「考えを改める?思惑・・・?」
「戦場ではいくら申し上げても聞き入れてもらえぬ故、このような愚行を犯したまで」
「・・・・・・」
「司馬懿殿のお心を、これほどまでに傷つけるつもりなどなかったのでござる」
 徐晃は顔を上げて、再び司馬懿の手を取った。痩せた手の甲に、薄っすらとした跡だけが残る傷を見とめて、静かに額を押し当てる。
「司馬懿殿がお元気でなければ、何の意味もござらぬ・・・」
「・・・で、は・・・私は・・・・・・」
 信じられぬと言うように小さく呟いて、司馬懿は己の手を押し頂く徐晃の頭に、空いた方の手を差し伸べた。
 指先に、見慣れた頭巾の冷えた感触が伝わる。
 懐かしいとさえ思えるそれに、不意に押し殺していた感情が込み上げてきて目頭が熱くなった。
「司馬懿殿・・・?」
 布越しに触れる優しい感覚に、徐晃は顔を上げる。そして、目に映った司馬懿の様子に驚いて息を呑んだ。
 唇をきつく噛んだまま声を殺して、微かに震えている白い頬には、大粒の涙が幾つも零れ落ちていた。
「し、司馬懿殿。お泣きになるな」
 徐晃は慌てて手を伸ばす。その手を掴み返して、司馬懿は眦を吊り上げた。
「ばっ、馬鹿目が、馬鹿目がっ!この大馬鹿者めっ!!」
 爪が食い込むほどに厚い手を握り締めて、声が枯れるほどの大声を張り上げる。
「愚かにも程があろうっ!この馬鹿目がっ!わ、私はてっきり・・・」
『嫌われたのだと思った』
 続く言葉を辛うじて呑み込んで、司馬懿は喉の奥で唸り声を立てた。
「も、申し訳ござらぬ・・・」
 目の前で狼狽える徐晃の顔があまりに切羽詰って見えて、司馬懿はそっぽを向くと乱暴に己の頬を拭った。
 嫌われたのではなかったのだと、確認する。
 安堵に震えそうになる身体を抱き締めて、煩い心臓を落ち着けるようにゆっくりと息を吐いた。
「馬鹿目が・・・」
「何度も繰り返して頂かなくとも、自覚はあり申す」
 己に向けた呟きに律儀に返答されて、司馬懿は堪え切れなくなって笑い声を零した。
「ふっ・・・はは、あはははっ」
 泣いたり笑ったり目まぐるしい司馬懿に戸惑いながらも、徐晃は伸ばしたままの腕で薄い肩を引き寄せる。抵抗がないのを確かめて、より強く抱き込めた。
 久しぶりに、腕の中に大切な温もりを感じて、穏やかな心持ちで瞼を閉ざす。
 発作のように笑い続ける司馬懿の呼吸が落ち着くまで、その体勢で抱き締め続けた。
 やがて、静かになった司馬懿は、広い肩に頭を寄せて咎めるように呟いた。
「私の考えを改めさせようとしただと?私が何を改めねばならぬ?」
「・・・もっと、御身を大切になさって頂きたい。戦に勝つことも大事でござるが、司馬懿殿が無事であることが何よりも肝心なのでござる」
「大事にしているつもりだ」
「そうは思えませぬ。いつも無茶をなさる」
「危なくなれば、貴方が助けに来てくれるのであろう?いつもそうではないか」
 揶揄かうでもなくそう告げれば、回された腕に力が篭った。息苦しいほどに抱き締められて、司馬懿は僅かに身を捩った。
「徐晃殿?」
「・・・必ず間に合うとは限りませぬ」
「え?」
 腕の力が弱まって、司馬懿は俯く徐晃の瞳を間近に見た。その双眸に、常の徐晃には似合わぬ昏い苦しげな色を見咎めて柳眉を寄せる。
「徐晃殿?」
「・・・・・・夢を見るのでござる」
「夢?」
「戦の夢・・・貴方を助けられぬ夢・・・。あと一歩が届かずに、両掌が貴方の血に染まる夢を・・・・・・」
 訥々と語る徐晃の、口調とは裏腹な苦しげな顔に、司馬懿は胸を突かれたように口篭った。
 言おうと思っていた詰りや怒りの言葉が全て、その表情に打ち消される。
 そして、己の甘えと迂闊さを思い知って、黙ったまま徐晃の頬に手を伸ばした。
「・・・・・・そのような顔をなさるな。私だとて、死にたくなどない。貴方の言葉、肝に銘じよう」
「司馬懿殿」
「だが、お忘れになるな」
 指先で意志の強そうな目元を辿り、司馬懿は唇に薄っすらと笑みを刷いた。
「私だとて、徐晃殿をお守りしたいのだ・・・」
 初めて告げた想いに、今更ながらに気恥ずかしくなって目線を逸らす。
 俯いた司馬懿は、突然牀榻に押し倒されて苦鳴を上げた。
「痛っ・・・」
 抗議の声は、合わされた唇に全て奪われる。息もつけぬほど深く口内を貪られて、司馬懿は一瞬気が遠くなりかけた。
 それでも、必死に腕を伸ばし、圧し掛かる徐晃の首を引き寄せる。
 失ってなかった。
 その事実だけが、司馬懿の胸中を支配していた。
 だから、着物の袷から武骨な手が肌を撫で上げても、微かに慄いただけで抵抗はしなかった。
「徐晃殿・・・?」
 離れた唇を惜しむように、司馬懿は呟く。その濡れた榛色の瞳を見返して、徐晃は精悍な眉を辛そうに顰めた。
「お痩せになられたな」
 胸に置かれた掌が、浮き出た胸骨を緩やかになぞる。今にも泣きそうに見えるその顔に、司馬懿は艶やかな笑みを返した。
「少し食欲がなかっただけだ。すぐに戻る。それとも、」
 一旦言葉を切って、意地悪そうに、それでいて子供のように小首を傾げてみせた。
「こんな痩せぎすの身体はお嫌か?」
 思い切り否定の意を表し、困ったように微笑む徐晃に、司馬懿はゆっくりと目を閉じる。
 素肌に感じる温もりが、よりいっそう強く感じられた。
 正直、衰弱した身体で徐晃の相手をするのは容易ではないと思われた。
 それでも、司馬懿は今手の中にある温もりを、もっと深いところで感じたい衝動に駆られていた。
「司馬懿殿」
 耳元に名前を囁かれ、肌が粟立つ。
 たかが一人の人間のせいでこれ程までに愚かになる己を、司馬懿はそう悪くはないと感じた。そして、そのように考えてしまう己の変化に、内心に呆れた笑いを零した。
「慣れぬ策など、もう弄じなさるな」
 吐息交じりの囁きに、視線が絡み合う。徐晃は深く頷くと「二度と」と答え、その唇を再び司馬懿の口元に寄せた。
 合わせた唇の優しさに、これは誓いなのだと悟る。
 不器用な男の誠実さを、司馬懿は得難いものとして受け止めた。



 今日も今日とて、戦う軍師は窮奇羽扇を片手に戦場を駆け回る。
 居丈高なその姿は相変わらずで、しかし、ほんの少しだけ以前よりは大人しくなった振る舞いに、張コウは馬上で苦が笑いを噛み殺した。
「結局、徐晃殿は過保護なのですから」
 聞き咎めた夏侯淵が、傍らで不思議そうな顔をする。それにただ微笑みを返して、張コウは馬首を廻らせた。
 果てのないような争乱が、いつの日かなくなることを願いながら。