仲達くんと徐晃さん2
 丞相府から錬兵場へ戻る途中。
 書庫へと続く渡り廊下に新参軍師の姿を認めて、徐晃は足を止めた。
 両手いっぱいに竹簡を抱えどことなくよろよろと、それでも胸を反らして歩むその姿に思わず呟きが零れる。
「大丈夫なのでござろうか・・・」
 先週、転びまくった当人を見ているせいで、頼りない足取りのその人が今にも転ぶのではないかと目が離せなくなる。
 『何故、ご自分であのような大量な荷を抱えているのでござろう。誰ぞに、手伝わせればよいのに・・・』
 内心に続けながらも、徐晃は深く考える前に渡り廊下へ駆け寄っていた。
「お手伝い致そう、司馬懿殿」
 声をかけると、よほど竹簡に意識を集中していたのか、細い身体がびくりと跳ねた。同時に、バラバラと派手な音を立てて腕の中の荷が零れ落ちていく。
 一瞬あっけに取られたように自分の足元を眺めた司馬懿は、眦を吊り上げて声をかけた者を睨みつけた。
「徐将軍っ!」
 刺々しい声音が響く。しかし、徐晃は何も気にかける様子もなく、ひょいっと身を屈めると散らばった竹簡をてきぱきと拾い上げ始めた。
「やはり持ち過ぎでござるよ。ご無理をなされるな」
 手早くすべてを集めた徐晃は、そこでようやく司馬懿の方を見やった。
「このようなこと、誰かに頼まれればよろしいのに」
「頼まなくてもひとりで出来る」
「そうは・・・(思えない)」
 語尾を辛うじて呑み込んで、徐晃は苦笑いのまま促した。
「お持ち致そう。どこへ参られる?」
 司馬懿は眉宇を僅かに顰め、傍らに立った武将を見つめた。
 自分の腕には余った竹簡がなんら苦もなく抱えられているのを見て、少し不愉快そうな表情を浮かべる。
 それでも、手を貸すと言う申し出を断るほどではなかったようで、小さく頷くと「書庫へ」と告げた。
「・・・・・・だ」
 歩み出してから、司馬懿は前を向いたまま何事か呟いた。聞き取れなかった徐晃は、肩越しに問いかける。
「なんでござるか?」
「・・・だと言った」
「は?」
「だから!」
 紫色の頭巾を翻してくるりと勢い良く振り返る。
 危ない!と徐晃が思う間もなく、
 
 びたん!

 
 司馬懿は過日のごとく、己の裾を踏み付けて廊下へ平べったく転がった。
「し、司馬懿殿!」
 デジャブに一瞬眩暈を起こしかけた徐晃は慌てて膝をつく。
 しかし、竹簡を放り出すわけにもいかず手を出しそびれていると、司馬懿はむくりと起き上がった。
「なんでいつもいつも貴殿なのだっ!」
 顔を上げた途端、真っ赤に染まった物凄い形相で詰め寄られる。
「な、なんで、と言われても」
 睨みつけてくる目のあまりの剣幕に、徐晃は少々情けない表情を浮かべた。
「運命、とか」
 深い意味はなく口にした言葉に、目の前の顔がぴくりと強張った。
「なにが運命だっ!そんなサイアクの運命など認めぬわっ!」
「・・・言葉のあやでござる。あまり気になされるな」
 ほとほと困った顔で応じると、司馬懿は乱暴に己の服の埃を払い「馬鹿めが、馬鹿めが!」と何度も繰り返しながらズカズカと歩き出した。
 徐晃は黙ってその後に続く。
 今日は鼻の頭は大丈夫だったなとひとりごちながら。


 翌日。
 いつものように自兵を調練していた徐晃は、同じく調練中の夏侯淵に声をかけられた。
「よう、徐晃。来週の遠征は俺とおまえだったよな。よろしく頼むぜ」
「こちらこそ」
「あの新人軍師も一緒だそうだから、せいぜいお手並み拝見といくか」
「え・・・?司馬懿殿も出陣されるのでござるか?」
「そうだってさ。今朝、惇兄が言ってた。さすがに戦場じゃ、アイツのあの『何でも出来るんです』って言う澄まし顔も変わるだろうから、見ものじゃねぇか?」
 軽く笑う夏侯淵の言葉に引っ掛かりを覚えて、徐晃は眉を顰めた。
「危険なのではござらぬか。此度の戦いに軍師がわざわざ出る必要はないと思うが・・・。それに、」
『司馬懿殿のあの鈍さでは、その危険も一割増し、いや、一気に倍増なのではないか』
 そう続けようとした言葉は、割り込んできた張コウの声に遮られた。
「大丈夫ですよ。司馬懿殿なら美しく戦われるでしょう。身のこなしもきびきびしていますし、無駄がない。鋭利な刃物のような方だ。どのような美しい戦いになるか、私は共に行けなくて残念です」
「きびきびしていて無駄がない?・・・司馬懿殿がか?」
「そうですよ?ねぇ、夏侯淵殿」
「まぁ、そうだな。丞相が無理やり連れてくるだけはあって、本当に何でも出来ますって言う感じだよな。武芸も下手な部隊長よりはこなせるみたいだし。年若いくせに、老成してるっていうかなんというか。まぁ、性格はおいといて」
「・・・・・・」
「どうかされたんですが、徐晃殿?」
 首を傾げて覗き込んでくる張コウに、いやと言葉を濁して徐晃は黙り込んだ。
 司馬懿に対する印象が、自分と他の人々との間で随分な隔たりが出来ていることを初めて実感する。
『なんでいつも貴殿なのだ!』
 子供のように喚かれた言葉が不意に蘇ってきて、徐晃は腕組みをしたまま文官たちが詰めている尚書台の方を見やった。

 すっかり夜も更けてしまった時刻。 
 職務がひけていったん退出していた徐晃は、両手に大層な荷物を抱えて城に舞い戻っていた。
 すっかり灯の落ちた城内にあまり人気はなく、息せき切って戻ってきた自分自身が少しばかり滑稽に思える。明日にしても構わない用件だとは思う一方で、目当ての人物はまだここにいるとほぼ確信していた。
 すれ違う衛兵たちに心地好い宵の挨拶をしながら大股で歩を進める。
 案の定、目指した室から灯かりが漏れているのを目に入れて、徐晃は微かな笑みを零した。
「司馬懿殿、徐晃でござる。入ってもよろしいか?」
 扉の前で声をかけると、僅かな間があって「入られよ」と良く通る声が聞こえた。
「このような夜更けに何用か、徐将軍」
 文机についていた司馬懿は、顔を上げると真っ直ぐに視線を向けた。
 淡い燭台の灯かりに、平常から良いとは言い難い顔色がいっそう青白く見えて、徐晃は小さくため息をついた。
「司馬懿殿こそ、このような夜更けまでお仕事でござるか?あまり根をつめられるな」
「貴殿には関係なかろう」
 不機嫌そうな声音に臆することもなく、徐晃は持っていた荷物を文机の前に広げ始めた。
「そうはいきませぬ。司馬懿殿は我等の大切な軍師殿。万が一のこともあってはならぬでござるよ」
 言いながら手際よく包みから荷を取り出し司馬懿の前に並べていく。それを目にして、猫のようなきつい瞳が不思議そうに細められた。
「将軍。なんだ、これは?」
「沓でござる」
「それは見れば分かるが」
 まず目に付いたのは、爪先の大きく反った一足の沓。流麗な細工の施されたそれは、とても徐晃が履くための沓とは思えない。 しかし、隣には、短刀、兜と明らかな軍装用の品々が続く。
「貴殿のものか?」
「いえ、貴方のものでござる」
「は?」
「司馬懿殿に見合うものをお揃えした」
 一通り並べ終わると、徐晃は屈託ない笑みを浮かべた。
「何故に?」
「戦に出ると聞き申した。司馬懿殿は司馬懿殿でご用意があり大きなお世話だと思われるでござろうが、何分初陣。戦慣れした者の一人として、僭越ながら必要な物をお揃え致した」
「・・・・・・」
「拙者はあまり装飾的な良し悪しは分からぬ故、細工が気に入らねば、似たような機能の物をお揃え下され」
 他人から施しを受けるなど、司馬懿の高い矜持が許さぬかもしれぬと徐晃はちらりと思う。
 しかし、沓の片方を手に取った司馬懿は、目を眇めてぽつりと呟いた。
「本当に可笑しな方だ」
「なにか?」
「・・・お心遣い感謝しよう。だが、私は貴殿に何も返すものはない。またそれを期待されるようであれば、即刻これらを引き下げて頂きたいが」
「なにもいらぬでござるよ」
「では、このようなことをして貴殿に何の得があるというのだ?」
「拙者の心が軽くなり申す。でなければ、司馬懿殿が心配で心配で、気が散って仕方ないでござる」
「なっ」
 問いかけに明るく即答されて、司馬懿は言葉に詰まる。
 しかも、言葉の意味をそのまま受け取ると、とてつもなく恥ずかしいことを言われた気がした。
「わ、たしが心配などとは酔狂な、」
「酔狂などではござらぬよ」
 大真面目な口調で告げられて、司馬懿は思わず目線を落とした。
「徐将軍・・・・・・」
「司馬懿殿は運痴であられるから、せめて装備ぐらい正しきものを揃えて頂かないと」
「・・・・・・」
「この沓ならば、裾を踏んで転ぶこともありますまい」
 笑顔のまま続ける徐晃は、周囲の温度が一度ほど下がったことに気付かない。
「・・・・・・・・・」
「司馬懿殿?」
 微かに身を震わせた司馬懿を伺うように、徐晃は力強い声をかけた。
「何も心配なさるな」
「だっ、誰が何を、」
「司馬懿殿のことは、拙者が身を以ってお守り致す」
「〜〜〜こ、〜のっ、馬鹿めが〜っ!!!」
 耳元の大音声に、徐晃は面食らって後退さった。
 肩で息をしている赤い顔を見て首を傾げるも、先ほどまでの死人のような容貌より、こちらの方が遥かに良いように思えて笑みを深くした。
 そういえば、自分は司馬懿の取り澄ました表情など、あまり見たことがないように思う。
 強いて言えば、丞相への謁見の時くらいか。
 つらつら思い返していると、顔にばさりと何かが投げ掛けられた。
 手で触れれば、それが荷物を包んでいた布だと分かる。取り除けると、文机に就いたまま睨みあげている司馬懿と目が合った。
 その顔がなんとなく癇癪を起こした子供のように見えて、徐晃は口元が緩みそうになる。しかし、さすがにここで笑っては機嫌を損ねそうだと慌てて表情を引き締めた。
「では、お暇致す。司馬懿殿も、もう休まれよ」
 一礼して踵を返す。持ってきた荷まで投げられるかと思ったが、さすがにそれはなかった。
 ひとまず安心して出口で振り返った徐晃は、唇をへの字に曲げたままこちらを見続けている司馬懿に、もう一度、笑顔と共に礼を返した。



 出陣の日の朝。
 自分の贈った軍装を纏い出仕してきた司馬懿を見て、徐晃は少し驚くと共に安堵に胸を撫で下ろした。
「徐将軍」
 擦れ違いざまに声をかけられる。
「なんでござろう」
「ご自分の発言、お忘れになるな」
「!」
 見上げてくる挑戦的な目に、徐晃はしっかりと頷き返した。
 戦に出る高揚感とは別の、妙な胸の高鳴りを感じて不思議に思う。しかし、出陣の準備に追われ、それを追求することはなかった。


 やがて。
『司馬軍師の護衛は徐将軍が勤める』と言う暗黙の了解が、魏軍に罷り通ることになる。