てのひら
 瞼の裏が仄かに明るい。
 朝日が昇ったのだと、未だはっきりとは覚醒せぬ頭で理解して、司馬懿は億劫そうに薄目を開いた。
 目に映る敷布の白さに再度眠気を誘われるが、起きて身支度を整えねば出仕に遅れることは明らかで、小さく唸り声を発すると丸めていた身体を起こした。
 否。
 正確には、起こそうとした。
 その途端、夜着の隙間から差し入れられていた手に力が込められる。振り解こうと身じろぐと、手放すまいとより強く抱きこめられて、司馬懿はぞくりと身を震わせた。
 己よりも温かい、かさかさに乾いた大きな掌。
 何よりも、誰よりも、大切に思う、男の手。
 無遠慮に素肌を這われて、鼓動が跳ねる。
 しかし、手の持ち主は未だ幸せな夢の中にいるようで、司馬懿は僅かに涙目になった眦を吊り上げた。
「離せ!離さぬかっ!」
 耳元で喚いても、なかなか閉じられた目は開こうとはしない。それどころか、半分起き上がっている司馬懿の胸に頭を摺り寄せて、気持ちよさげな寝息をたてた。
 また、鼓動が煩く跳ね上がる。
 一々過剰反応する己の心臓に本気で情けなくなってきた司馬懿は、握った拳を短い黒髪の頭へ叩き込んだ。
「起きろ、この馬鹿めがっ!!」
 殴った本人も痛い渾身の一撃に、さすがの偉丈夫も顔を顰めて瞼を上げる。
「・・・おはようでござる、司馬懿殿。出来ればもう少し、優しい起こし方をして下さらぬか」
「馬鹿めが!これほどまでされぬと起きぬとは、武人として気が抜けすぎだぞ、徐晃殿!」
 憤る腕の中の人の朱色に染まった頬を見上げて、怒鳴られた当人はにっこりと微笑んだ。
「司馬懿殿の傍にいる時だけでござるよ」
「!」
「我侭をお許し下され」
「・・・もう良い。手をのけられよ」
 そっぽを向いて、目覚めてからも素肌に触れたままの掌を退けようと手を伸ばす。しかし、その手は逆に大きな掌にがっちりと握りこまれてしまった。
「徐晃殿?」
「司馬懿殿の手は冷たいでござるな。手の冷たい人は、心が温かいと聞いたことがござる」
「・・・なれば、貴殿の心はよほど冷たいのであろうな」
「それは酷い」
 他愛無い言葉遊びに微かな笑みを浮かべた司馬懿は、不意に強く腕を引かれて厚い胸下に敷き込まれた。
「司馬懿殿」
 囁きと共に、目尻に優しい口付けが降る。
「・・・いい加減に離されよ。私を出仕させぬおつもりか?」
 触れ合った胸から鼓動の速さは伝わってしまっているだろうと思いながらも、司馬懿は努めて冷ややかな声音をつくった。
 しかし、徐晃はそれを気にも留めぬ風で、漢らしい精悍な目元を柔らかく綻ばせた。
「仕度をお手伝い致そう。だから、今少し、このままでおられよ」
 敷布に広がる長い髪を武骨な指で梳かれ、鳶色の瞳が猫のように細められる。
「思いのほか我侭な方だ」
「今頃お気づきか」
「自慢げに言うことではなかろう?」
「そうでござるな。だが、せめて、貴方のこの手が温もるまでは」
 笑み交じりの言葉に、小さく頷き返して。
 己の手がいつまでも冷えたままであれば良いのに、と。
 埒もないことを考える自分に、司馬懿は心の中で小さく笑った。




 貴方がいるだけで、心があたたかくなる

 こんなことを思う日が来るなど
 少し前の自分なら予想もしなかった

 考えもしない、嬉しい誤算

 けれど、なんだか悔しいから
 絶対言葉にはしてやらない