in wonderland
遠呂智は滅びた。
だが、世界は一向に元に戻る気配がない。
それは憂えるべきことに違いないが、司馬懿は僅かも気に留める様子なく、悠々自適に日々を過ごしていた。
為すべきことを為した今、人智を超える事象に首を突っ込む義理もない。
のんびり縁側で茶を呑みながら、司馬懿はよく晴れた青空を見上げた。

「空が随分高くなった気がする。ここにまともな季節があるのなら、秋の空というところか」
「さようでござるな」

これまたいつもどおり、傍らに座る徐晃ものんびりと空を見た。

「澄んだ美しい空でござる」
「そうだな。今まであまり気にしたことはなかったが、こうしてただ空を眺めるのも悪くないかもしれぬ」

静かな言葉に、徐晃はちらりと隣を伺う。曹魏に居た頃よりも、幾分血色の良い司馬懿の頬に、自然と笑みが零れた。

「…何を笑っておられる?」
「いえ」

僅かにむっとした表情に、慌てて首を振る。
その瞬間、大地が何の前触れもなく激しく揺れた。

「なっ!?」
「し、司馬懿殿っ!」

座したまま、咄嗟に互いを掴み合う。
だがそれもほんの一瞬で、辺りはすぐに元の静けさを取り戻した。

「大丈夫でござるか、司馬懿殿?」
「だ、大丈夫だ。いったい何だったのだ今のは」

眉宇を寄せて、司馬懿は居住まいを正す。
ふと広大な庭に目を向けると、よく手入れされた植え込みの一部が、がさがさと奇妙に揺れていることに気がついた。

「…徐晃殿」
「は」

同じく気づいている徐晃も、武人らしく神経を尖らせるとその植え込みを注視した。
ふたりの監視の下、濃い緑が掻き分けられ、ひょっこりと人の頭が覗く。
見慣れないその灰色の髪に、司馬懿も徐晃も同時に緊張した。
…のだが。

「おっと、人がいたのか!で。ここどこだ?」

目の前に現れたのは、派手な銀色の鎧を纏った、蒼灰の目の若い将。
屈託なく笑うその端整な顔に、司馬懿は我知らず口を開いた。

「此処は倭の国の甲斐、武田信玄が屋敷」
「タケダ…?変な名前、聞いたことねぇなぁ」

首を傾げる長身の青年を、司馬懿も徐晃もついまじまじと見詰めた。
初めて会った、名も知らぬ人物であるはず。
なのだが。

「おまえは、」

問いかけようとした矢先、青年の横の植え込みから、もうひとり小柄な人物がまろび出た。

「…痛、た…」
「だ、大丈夫か?!」
「平気だよ。…此処、どこだろう…?」
「さあ?タケダ何とかの屋敷だって」

新たな闖入者は、顔の半分を布で覆い隠した奇妙ないでたちをしていた。
倭国の忍びという者どもに似ている気がしたが、大きな澄んだ琥珀色の眸を見て、司馬懿はまた眉宇を寄せた。
初めて会った、名も知らぬ人物であるはず、なのだが。

「…孫策殿と周瑜殿、のような気がするでござる…」
「や、やはり徐晃殿もそう思われるか!」

思わず大きな声を出すと、灰色の髪の青年と忍びのようないでたちをした青年は、揃って司馬懿たちを見た。

「あんたらは、…曹魏の司馬懿と徐晃だよな?な〜んか随分、特に司馬懿は印象違う気がするが。印象違うってゆーか、年齢違うってゆーか」
「孫策…不躾だよ」
「え、ああ、悪ぃ。ところで、俺ら、建業に帰りたいんだよ。どっちに行けばいいが知ってるか?」
「…生憎、分からぬな。ただこの山中にいるよりは、海へ行った方が仲間に会えるのではないか」
「ああ、海ね!そりゃ名案だ。ありがとよ!じゃ行こうぜ、周瑜!」

ひとり賑やかに声をあげると、”孫策”は”周瑜”の手を引いてずんずんと歩き出す。
為すがまま手を引かれた”周瑜”は、司馬懿たちに向かって丁寧に会釈をすると黙ったまま”孫策”について行った。

「……」
「……」
「…少し、疲れているのだろうか」
「いや、拙者もなんと言うか…」

目を見合わせて、思わず黙り込む。
孫策は、確かにあんな性格だったような気もするが、灰髪蒼眼ではなかったし、周瑜はもっとずっと気が強そうな、髪の長い人物ではなかったか。
でも、あれは間違いなく、孫策と周瑜だった。
ワケが分からない感覚に神経がざわつく。
お互い無理に笑みを浮かべようとしたところで、再び植え込みががさりと揺れた。

「だ、誰だ!」
「…驚かせてしまい申し訳ない。道に迷ってしまったようなのだが、此処は何処だろうか」

植え込みを背に立っていたのは、重そうな冠と黒い衣を纏った位の高そうな文官。
神経質そうなその青年は、ぬばたまのような双眸をゆっくりと瞬くと、不審そうに眉を顰めた。

「…司馬懿殿、か?」
「…そうだが」
「……」
「そういう貴方は…軍祭酒殿か?」
「いかにも。…ということは、ここは許昌のどこかなのだろうか?殿と逸れてしまったのだ。早く戻らねば、仕事に障りが出る」
「と、殿がおられるのか?」
「逸れたと言っている。司馬懿殿、今度の貴方は随分とお若いな」

興味深げにそう言う相手の、言っている意味はまったく飲み込めない。
司馬懿が不愉快な表情を浮かべると、”郭嘉”は今度は徐晃を向いて問いかけた。

「そちらは徐将軍だな。先も言ったが、早く戻らねばならぬのだ。此処は何処であろうか?」
「残念ながら許都ではござらぬ、軍祭酒殿。倭国の甲斐という遠き場所。戻る方法は拙者らも分かり申さぬ」
「何だと?そのようなこと、困る」
「焦られても仕方ござらぬ。少しお休みになって考えられては如何か」
「いや、申し出有難いが、戻らねば仕事に障りが出てしまう。荀ケ殿にもご迷惑がかかろう。いま少しひとりで何とかしてみる」

言い置いて、”郭嘉”は険しい表情のまま先ほどの”孫策”たちとは反対方向へ歩み去る。
その頼りないような後姿に思わず立ち上がりかけた徐晃は、傍らの白い手に押しとどめられた。

「行ってどうする、徐晃殿」
「しかし、あの方が軍祭酒殿なれば、何事か起こった後では殿に顔向けできぬでござる」
「確かにそれはそうだ。あの方は軍祭酒のようだ。なれど、軍祭酒はあのように仕事を気にかける生真面目な方だったか…?」
「…それは…」
「あの方は、もうっとこう、こっちが苛々するほど不真面目で、いつも人を小莫迦にしたような嫌味な笑いを浮かべた小憎らしい顔つきの、」
「それはこんな顔か?」
「そう!このような、」

勢いで頷いてから、司馬懿はぎくりと固まった。
背中をつうっと嫌な汗が流れる。

「ぐ、…軍祭酒殿。いつ、こちらへ?」

いつの間にか背後から覗き込んでいた紺衣の人物が、にっと切れ上がった目を細めた。

「つい先程。仲達と徐晃殿が武田の屋敷へいると聞いて寄ってみたのだ。何か、随分と楽しいことがあったようだが?」
「べ、別にそのようなことはございませぬ」

司馬懿は縋るように徐晃を見やる。徐晃は曖昧な笑みを浮かべて、幾度か頷いた。

「軍祭酒殿、ご無事でなによりでござる。して、今までどちらへいらした?」
「適当にふらふら。倭の国の島という男が遠呂智を何とかしそうだったから、見物していた」
「殿にはお会いになられたのでござるか?」
「まだだ。先におまえたちを見つけた。吾はそろそろ行くが、おまえたちはどうする?吾と曹魏へ戻るか?」

徐晃はそっと隣を見る。
司馬懿は複雑な表情で、薄い唇を微かに噛んでいた。

「いえ。まだ武蔵殿との決着もついてござらぬ故、今暫く此処に留まりたく存じます」
「そうか。仲達は?」
「…私もまだ、左近と話したきことがあります故」
「ふん、まぁよい。そういうことにしておいてやろう」

笑う、怜悧な顔を見上げる。
郭嘉は袂から青い小振りの瓶を取り出すと、それを縁側にそっと置いた。

「茶ばかりではつまるまい。珍しい酒を手に入れたのだ。偶には良いだろう。ではな」

あっさりそう言って踵を返す。
司馬懿と徐晃は立ち上がって拱手すると、その姿が襖の向こう、母屋の方へ消えるまで見送った。
日に焼けた縁側には、ぽつんと残された青い瓶。

「……徐晃殿。やはり私はどうも疲れているようだ。軍祭酒にふたり、会ったような気がするのだが…」
「…はい…」
「いや、先程の方は間違いなくいつもの軍祭酒だが。なんというか……いや、やはり少し、休んだ方が良いだろうかな」
「そうでござるな。拙者もちょっと…」

困惑気味に眉を寄せて、徐晃は再び縁側に座り込む。
郭嘉が置いていった瓶を手にとると、空になっている湯飲みに中を注いだ。

「司馬懿殿、気付けに少しだけ如何でござるか」
「そうだな…いただこうか」

受け取った湯飲みから、ほんの僅か口に含む。
味わったことのないような優しい甘味が舌の上に広がって、ふたりはどちらともなく、気の抜けたような溜息をついた。



「…ろ!起きるのだよ、ふたりとも!」

ごんっと、鈍い痛みを頭に感じて司馬懿は瞼を上げた。
目に映るのは、すっかり暗くなった空と、赤い髪の神経質そうな面(おもて)。

「何処にいるのかと思えば、ふたり揃ってこんな場所で転寝か!頭の中まで平和になりすぎているのではないか」
「煩い、三な、…っくし!」
「ああ、ほら、こんな所で寝てると風邪引きますよ。夜は冷える」

笑い含みの左近の声に、同じく目を覚ました徐晃が恐縮そうに頭を下げた。

「面目ない司馬懿殿。拙者まで熟睡してしまうとは」
「いや、構わぬが」
「起きたのなら来い。信玄殿がお呼びだ」
「…時に三成」
「なんだ?」
「ここにあった、青い小瓶を知らぬか?甘い酒の入っていた」
「知らん」
「おっと、左近も知りませんよ。酒ならなんでも目がないワケじゃない。甘いのは苦手でしてね」
「……」
「どうかしたのか?」
「いや、軍祭酒殿から貰ったのだが。珍しい、あの方からのみやげ物だった故」
「軍祭酒?誰だ、それは?」

小首を傾げた三成に、司馬懿も不審そうに首を傾げた。

「今日、訪ねて来ただろう。郭嘉殿だ。金冠紺衣の、高飛車そうな文官が」
「知っているか、左近?」
「高名な曹魏の軍師ですな。お名前は聞いたことがありますがね。今日はこの屋敷に客人はいないようですよ」
「だそうだ。さぁ、寝ぼけてないでさっさと行くぞ」

固まってしまった司馬懿と徐晃にお構いなしに、三成はさっさと歩き出す。
不思議そうに目を細める左近の前で、ふたりは引き攣った笑いを浮かべた。

「…狐に化かされる、というのはこういうことか?」
「いや、それはどうかと…」

微妙に強張った互いの手をぎゅっと握り締める。
仲良きことは美しきかなと。
暢気なことを思いながら、左近は主の後を追った。


縁側の上には、木の葉が一枚。