たまには
黄昏過ぎ。
三成は廊下をすたすたと歩いていた。
脇目も振らず、ぐっと顎を上げて。
もしこれが慶次ぐらいの体格の持ち主なら、ずんずんという効果音とともに、通りがかりの者をふっ飛ばすだろう勢いだ。
幸い、というか、三成は大柄ではないため、擦れ違う者たちは慌てて道を開けて、ついでに目を逸らすくらいで済んでいる。
とにかく、触らぬ神になんとやら状態。
常に不機嫌そうな秀麗な顔をさらに不機嫌に歪めて、三成はすぱん!と勢い良く目的の部屋の襖を開いた。

「失礼する!徐晃殿はおられるか!」

開いておいてから失礼もなにもない。
だが、部屋の主は、手にした書物を読みさして人の良い笑みを見せた。

「これは、石田殿。いかがされた?」
「…読書中、だったか」

意外な光景に、三成の勢いは少し殺がれた。
徐晃は武一辺倒を絵に描いたような武人のため、部屋ですることはせいぜい得物の手入れくらいと高を括っていたのだ。
自分の認識の甘さをちょっとだけ反省した三成は、一応、今更な断りをいれた。

「書を中断しても良いのか?区切りの良いところまで待ってやってもいいが」
「いえ、大丈夫でござる。それより、何用でござろうか」

薦められた座布団に腰を下ろし、改めて邪気のない笑顔と向き合う。
そうすると、胸の内に爆発した鬱憤が、非常に言い出し辛い雰囲気になったことに気がついた。
仁王立ちのまま、勢いに任せて言ってしまえば良かったと後悔しても遅い。
目を泳がせた三成は、文机の書に視線を留めた。

「それは、和書ではないか?」
「さよう、武田殿の所蔵品でござる」
「徐晃殿は書に興味があるのか?」
「いえ、正直なところ、あまりなかったのでござるが、司馬懿殿に薦められて読むようになり申した。鍛錬のみならず、知識を深めることも大事と、今は思ってござる」
「ほう」
「とは申しても、未だ理解は浅いのでござるが。実はこの書も、司馬懿殿に選んで頂いたものなのでござるよ」

少し照れたように、徐晃は朴訥と語る。
その様子に、三成は剣呑に目を眇めた。

「貴方は、いつも随分と司馬懿殿を誉められるな。だが生憎、俺は司馬懿殿が徐晃殿を誉めたのを聞いたことがない」
「ああ、そういえば、拙者も聞いたことがないでござるな」

あっさりと笑い返されて、一度沈静化しかけた三成の腹立ちが再燃した。

「暢気なものだ。貴方が司馬懿殿を気遣っているのは一目瞭然。なのに相手は知らん顔。どころか、のうのうと他の者のことばかり気にかけているではないか」
「…と、申されると?」

急に語気を強めた三成を訝しく思って、徐晃は慎重に問いかけた。

「惚けるな。司馬懿殿に殊のほか気を配っている貴方が気づかないわけはない。徐晃殿は、す…、同志が他の者ばかり誉めるのが腹立たしくないのか!ぜひ一言、言っていただかねばな!」

完全に目が据わっている三成にずいずいと詰め寄られ、徐晃は顔に出さないまま焦りまくった。
近寄られて気づいたが、仄かに酒の匂いがする。
よくよく見れば、鳶色の眸は潤み、切れ長い眦は朱に染まっていた。
非常に分かり難い酔っ払いだと分かったが、分かったからといってどうしようもない。
どう見ても怒っている三成が、いったい何を怒っているのか。
会話を吟味して、徐晃は、つい苦笑いを零した。

「何を笑っている!」
「いえ。司馬懿殿が島殿を誉められるのは、島殿の力量を認めておられるからでござる。頭の良すぎる方ゆえ、知略で同等に渡り合える者は少ない。きっと、嬉しいのでござろう」
「…暢気な。腹は立たないのか」

島、と名指ししても、三成は反論しない。
それどころか、少しむくれたような表情を浮かべたのに、徐晃は確信を強くした。

「司馬懿殿が喜ばれることが、嘘偽りなく、拙者にとっても喜びなのでござるよ」
「……」
「島殿は石田殿ご自慢の軍師。片や、石田殿は島殿ご自慢の主君。おふたりはまことに羨ましき主従でござる。その幸を、我々にもお分けくだされ」

『左近の期待には応えてやらねばな』
三成の脳裏に、司馬懿の声が蘇る。
その不遜な物言いと笑みに、無性に腹が立った。
それでなくても、左近は人から誉めそやされる。最近はそれが特に顕著だ。
その人望を我が身に引き換えるほど愚かではないが、度が過ぎると、腹立たしくなることに気がついた。
特に、司馬懿の物言いが癪に障る。
そう。
簡単に言ってしまえば、悋気だ。
胸を占めたのは、あの男は俺のものだという、幼稚な独占欲に他ならない。

「…本当に、司馬懿が左近を誉めるのを見てなんとも思わないのか?立派なことだ」

急にしゅんと萎れてしまった三成に、徐晃は首を横に振って見せた。

「買い被りでござる。拙者とて、悋気は無きにしも非ず。ただ石田殿と違って年を重ねている分、気取られ難くなっているだけでござるよ」
「…それは、俺が気取られ易いと言いたいのか?」
「いいえ。羨ましいと、そう思っただけでござる。石田殿のような立派な方に誇りに思われて、島殿は幸せでござろう」
「ふん…。口が上手いな」

ぷいっと横を向いて、三成は完全にむくれた。
一方、距離が離れたことでほっと胸を撫で下ろした徐晃は、さて、酔い覚ましに何か持って来させたほうが良いかと思案した。

「ところで、石田殿。冷たい水か、濃い緑茶などいかがでござろうか」
「……」
「石田殿?」
「………」
「石…?…眠られて、しまった……」

畳に両手をついて、徐晃は呆然と呟く。
内容はともかく、会話の遣り取りは明瞭だったため、酔いは軽いとふんでいたのだが。
本当にどれだけ分かり難い酔っ払いなのか。
器用に座ったまま舟を漕いでいる三成を見やる。
溜息をついて左近を呼びに行こうと座を立ちかけた徐晃は、ふと思いなおして動きを止めた。
せっかくの三成の意地らしい行動を尊重するため。
引いては、司馬懿の気を引くため。
三成には悪いが、これくらいは許されるのではないかと。
軽い体を抱えあげて、夜気の深まった廊下へ出る。
三成の部屋に着く前に、できるだけたくさんの人の目につきますように。
滅多にない子供染みた悪戯に心を騒がせて、徐晃はゆっくりと歩を進めた。

たまには、こんな夜もある。