狐と猫
「馬鹿めが。凡愚が焦っても何も出ぬぞ!」
「ははは、仰るとおりだ。面目ありませんなぁ」

紫の衣を纏った軍師の罵声に、左近は暢気な声を返す。その遣り取りに、偶々通りがかった三成はキレた。
三成という男、冷静沈着かと見せて実はピンポイントで気が短い。そのポイントのひとつが、島左近。
この男のことを自分だって罵ることがあるくせに、他人が罵るのは我慢がならないという、実に理不尽な理由で瞬間沸騰した。

「凡愚とは聞き捨てならぬな、司馬殿」
「これは石田殿。凡愚を凡愚と言って何が悪い」
「その男の主は俺なのだよ。悪いのではなく、不愉快だ」
「存じている。噂と違って、石田殿は随分とお優しい主であられるな」
「おふたりとも、まぁまぁ、」

睨み合う形に対峙したふたりのど真ん中。
運悪く位置した左近は、両手をあげて軽く牽制してみる。けれど、三成はそれを片手で払いのけて、切れ上がった目をきつく細めた。

「そんなこと、生憎言われたことはない。司馬殿こそ、主はどうした?曹丕も対遠呂智の烽火をあげているぞ。戻らなくても良いのか」
「…此処では、私と曹丕様は関係ない。ひとつ、この世界の良いところは、御守から開放されて清々することだ」
「裏切り者では戻り難いだけだろう」
「殿っ!」

鼻先で笑った三成は、左近に腕を引かれてはっとなった。
目の前で、凍りついたように色を失っている端整な冷貌。左近は殊更笑顔を作って、おどけたように肩を竦めてみせた。

「司馬さん、すみませんね。うちの殿、口が悪くて。これでも可愛いところもあるんですけどね。まぁ、それは教えてあげられませんが」
「なっ、何を申すか、左近!」
「…ふん、馬鹿めが。間の抜けた主従に付き合っている暇はないわ」

くるりと踵を返して歩き出す細い背に、左近は軽く溜息をついた。

「殿?」
「…わかっている。失言だ。ただ、あの威勢のくせにあれほど傷つくとは思わなかったのだよ」
「強がりなんですよ、あの人は」
「曹丕といい、司馬懿といい、似た者同士だな。まさしく師と教え子か。…なぁ、左近」
「はい?」

遠ざかる背を見つめていた三成は、僅かな間をあけて言葉を続けた。

「司馬仲達は裏切り者ではないだろう。少なくとも、文帝(曹丕)を裏切ることはしなかった。曹丕も、あいつのことだ、司馬家のほうが国を治めるに相応しいと思えば、王座に執着はしないはず」
「そうでしょうね」
「……余計な世話、か」

最後は小さく呟いた三成に、左近もこれまた小さく噴出した。

「左近!」
「っは、いえいえ、すみません。殿は本当にお優しいと左近、感激いたしました」
「…下らぬことを言うと口を縫い付けるぞ……」

まっさかさまに機嫌が降下した三成から距離をとる。この美人は、やると言ったら本当にやるのだ。そこも可愛いのだがと、さすがに余計なことは言わないまま、左近は歩き出した。

「さて。じゃ、左近は一仕事してきますよ」
「徐晃殿なら、武蔵と西の屋にいたぞ」

そっけなく言い放たれた言葉に、左近は口元を綻ばせる。
司馬懿と三成も実は似た者同士だろうと。
この件については、一度徐晃と語ってみたいものだと鼻歌交じりに西の屋を目指した。





空腹を刺激する甘い匂いに、司馬懿は持っていた筆を止める。文机から視線を上げたところで、障子の陰から顔を出した徐晃と目が合った。

「司馬懿殿、桃まんをいただいたのでござるが、ご一緒致しませぬか」

精悍な面と、手にした可愛らしい桃型のまんじゅうのちぐはぐさに、司馬懿は眦を緩めた。
元から甘いものは好物。しかも、苛々したうえに頭脳労働を続けているせいで、体が糖分を欲していた。

「いただこう」
「お茶も入れて貰ったのでござるよ。玉露という種類の、倭国では高価な茶葉だそうでござる」

微かに甘さを感じるふくよかな香り。一口飲んだ司馬懿は、期せず笑みを浮かべて、次いでまんじゅうを手に取った。
倭国の料理は総じて淡白だ。けれど、甘味の種類の多さと味の良さは中華に引けをとらない。見た目にもかなり趣向を凝らしたものが多かった。
手頃な幸せに浸りながら、司馬懿は先ほどの遣り取りを脳の奥に押し遣る。
和菓子と同じように、倭国の人だとて優秀な者が多い。ソリが合うかどうかは別問題だが、なにより今の己の不愉快は、整理がついたと思っていた感情が簡単に揺らいでしまったことに起因していた。
なにも、あの狐の言葉に傷ついたわけではない。己の精神の弱さがムカついただけ。
脳内で言い訳しながら、玉露を含んでほっと息をつく。
その様子を、徐晃はこっそりと伺っていた。
島左近から、大まかな事の経緯を聞き及んだ。司馬懿は弱い人間ではない。けれど、曹丕絡みの問題は司馬懿の弱点だった。本人は否定するだろうが、司馬懿は曹丕のことをとても大切に思っている。徐晃は長年この天邪鬼な軍師の傍にいて、それを肌で感じとっていた。
生き難いお人でしょうと、島は笑った。
うちの殿もそうなんですがね、どうか、悪く思わないでやってくださいよ。
そう言ってまんじゅうと玉露の葉を差し出した倭国の軍師を、徐晃は思い出して微かに笑んだ。

「徐晃殿?何を笑っておられるのだ?」
「いえ、美味なるものを食したので、つい笑みが零れてしまいました。面目ない」
「そのようなことで謝られるな。確かに、私も美味いと思う。して、これはいかがされたのだ?」
「島殿から頂いたのでござるよ。拙者だけでは食べきれぬゆえ、僭越ながらお持ち致した」
「島…」

呟いて司馬懿は眉宇を寄せ、だが、すぐにそれを解いて肩を竦めた。

「あの男は見目では量れぬ切れ者だな。今度、白酒でも送ってやろう」
「そうでござるな、良い案です」
「徐晃殿、……貴殿にお会いした時から、私は少しは成長しているだろうか」
「こうやってお尋ねくださることが、なによりもその証だと思うでござる」
「そうか、…ふふ、あの狐よりマシでありたいものだ」

口元を微かに綻ばせて、置きさしていた筆を手に取る。けれど、その細い手は大きなゴツゴツとした掌に包められた。

「今日はもう仕舞いでござるよ」

目を上げれば、優しい、けれど有無を言わさぬ穏やかな笑顔。
まぁ、たまにはこういう日も必要かも知れぬと。
司馬懿は、わざと大きく溜息をついて、暖かな掌を握り返した。