夏日のひとこま
「あっつい…」

ぱたぱたと、手で自分を扇いだくらいでは、ちっとも涼しくなりはしない。
だるそうな声と同様、だるそうに長椅子に寝そべった人は、鬱陶しげに紺衣の裾を捲り上げた。
真っ直ぐに伸びた、蒼いほどに白い両脛が露わになる。
案内もなく室に入ってきた隻眼の男は、その有様を見て濃い眉を顰めた。

「だらしない恰好をするな、郭嘉」
「惇将軍か。吾が自室でどんな恰好をしていようと、別に構わないでしょう」
「構え!俺は客人だぞ」
「へぇ、客人ですか…。生憎、何のお構いも出来ません。それでよければどうぞご自由に。嫌なら、さっさとお引取りを」

どすの利いた声にも、だるそうなまま、人を舐め切ったような物言いが返る。
だが、こんなことにいちいち腹を立てていては、郭嘉の相手は務まらない。
夏侯惇は渋い顔のまま、室の隅に設えられた長椅子に近づいた。

「また具合が悪いのか」
「良いわけがない。この暑さは異常だ。おまけに、当分戦の気配もない。腐って死んでしまいそうだ」

言葉はぞんざいなままだが、きつい面差しには明らかな疲弊が見て取れる。
お世辞にも身体が丈夫だとは言えない郭嘉は、冬の寒さにも夏の暑さにも弱かった。
それでも戦中元気なのは、この変わり者の活力の素が、ひとえに気力に基づくため。
元気の素がなければ、それだけどんどん弱っていく。
だからと言って、「それでは戦をしましょう」と言うわけにもいかない。
溜息を噛み殺して、夏侯惇は蒼白い額に手を伸べた。

「…熱があるな」
「暑いのだから当たり前です」
「食事は取ったのか?」
「動かないのだから、そんなに食べる必要はありません。需要と供給はつりあっています」
「あのなぁ、郭嘉。そんな減らず口ばっかり叩いていると、不味い薬湯を嫌ってほど飲ませるぞ?」
「え…うっ、わ!?」

呆れかえって言い放つと、夏侯惇は些か乱暴に力のない身体を抱き起こした。
上背のある相手に両肩を掴まれ、膝が長椅子の上につかない中途半端な状態にぶら下げられた郭嘉はジタバタと暴れた。

「何をするっ!離せ!」
「駄目だ」
「離せったら離せ!馬鹿力!」

目を吊り上げてもがく相手を、夏侯惇は平気でぶら下げたまま強(こわ)い顔を作った。

「分かってるだろうが。俺が来ただけ有難く思え。このままで孟徳が戻ってきたら、おまえは半幽閉の医務室暮らしだぞ」
「…吾は病人ではありません」
「もう少し人間らしい顔色になったら、その言い分も真に受けてやろう」

端整ではあるが峻厳な武人にきつく言い渡されて、薄い唇が嫌そうに歪んだ。

「どうするつもりですか」
「まずは薬を飲め。そして、滋養のあるものを食べるんだ。いい大人が、こんなことをわざわざ言われるんじゃない」
「お節介将軍」
「我侭軍師」

至近距離で睨み合う。
一瞬の緊迫。
だが、それは長くは続かず、次の瞬間には互いに声を立てて笑い出した。

「人が良いのも程がありますよ、夏侯惇将軍」
「おまえの具合が悪いと、孟徳が凹む。あいつのためなら、俺はなんだってするさ」
「将軍は、殿を甘やかしすぎです」
「だから、おまえのことも甘やかすだろう?」
「殿のために?」
「そうだ。我等が丞相閣下のために」

くすくすと、楽しげに郭嘉は笑い続ける。蒼白かった頬に少し血の色がさしてきた。

「そういうことなら、仕方ない」

笑いながら、瘠せた手を逞しい両肩へまわす。
もう己で立つから手を離しても大丈夫だ、と。
そう言おうとした矢先、予期せぬ第三者が現れた。

「失礼致します、軍祭酒様。書簡が届いておりますが……え?あっ、…おっ、お邪魔致しましたっ!!」

顔を真っ赤にした文官が、慌てふためいて逃げるように駆け出していく。
一瞬の嵐を見送った後、夏侯惇と郭嘉はまじまじと自分たちの姿を眺めた。
脛まで捲くっていた郭嘉の紺衣は、暴れたせいで膝上まで捲れ上がり、同じく二の腕まで露わな両腕は、自分を抱きかかえる男の肩にしっかりと回されている……。

「………」
「………」
「誤解されたかな?」
「だぁっ!!おまえのせいだっ!」

ケロリとした郭嘉とは対照的に、夏侯惇は顔を真っ赤にして痩身を押しやった。それでも突き飛ばすことをしないのは、悲しいほどに根が優しい性(さが)だ。

「何故吾のせいなんですか?抱いていたのは貴方でしょう?」
「変な言い方をするな!言っておくが、可笑しな噂が広まったらおまえが釈明してまわれよ!」
「嫌です。吾の行動に盛大な尾鰭がつくのは今に始まったことではないでしょう?そんな面倒なことはしませんよ」
「自覚があるなら平素の言動を改めろっ!」
「それほど言うのなら、そうですね…、もし殿が平素の言動を改められたら、吾も考えても良いですが」

出来るわけないだろうと言った調子でにやにや笑う白皙の面に、夏侯惇は苦り切って口元を曲げた。

「…ったく!主といい軍師といい、碌な性格じゃない」
「今更でしょう?ですが、夏侯惇将軍」
「なんだ?」
「殿も吾も、貴方のことが大好きですよ」
「…っ!!ああ、そうっ!!!」

真っ赤なまま言い放って、薄い身体をさっさと横抱きに引っ掴む。
驚いた郭嘉がもがくのを抑えて、夏侯惇は広い歩幅でどんどんと歩き出した。

「将軍!余計に目立ちますよっ?」
「これくらい目立ったほうがいい。おまえが行く先は医務室なんだからな!」
「……仕方ないなぁ…」
「何か言ったか?」
「いいえ、別に」

触れる体温の高さにうんざりしながらも、郭嘉は抵抗をやめて大人しくなる。
気味悪そうに見下ろしてくる隻眼に、にっこりと華やかな笑みを返してやった。


殿が戻ってきたならば、一緒にどうやってからかってやろうかと。
退屈を紛らす楽しみを見つけて、微熱に疲れた思考を閉ざす。


窓の外は、煩いほどの蝉の声。