惑わすもの
*Empire.verでおおくりします

 曹魏の中国統一まで後一歩。
 残る地域である南蛮の制圧を任された各武将は、天下を夢見て意気揚々となっていた。しかし、いくら士気が高いとは言え北原出身の人間が多い曹魏軍。南国特有の纏わりつくような高湿度に、日中はついだらだらとなってしまう。この度の総大将であり軍師である司馬懿も、昼間の進軍を良しとせず、皆各々英気を養うよう通達していた。
 そんな、どことなくまったりした雰囲気が漂う陣中に、場違いなほど元気な声が響き渡った。
「うわぁ!間近で見るとますます大きいですねぇ!」
 嬉しそうなその声に、近くに居た武将が近寄っていく。
「確かにでけぇな。これなら大デブの許チョが乗っても全然平気そうだ」
「夏侯淵殿。あまり本当のことを言ってはいけませんよ」
「お前だって結構言葉キツイじゃねぇか、張コウ」
「そうでしょうか?」
 燦々と降り注ぐ陽光の下。大きな獣の前で無駄口を叩いている二人の将軍に、天幕の中から冷たい視線が注がれた。それはあからさまな侮蔑の視線で、声に出ずとも近侍にはその内心が漏れ聞こえるようだった。
『馬鹿めが!休息を取れと言っているのに無駄に体力を消耗しおって。太陽というものは浴び過ぎると毒になるのだ!』
 不愉快そうな顔を大きな黒羽扇で隠し、もっと奥へ引っ込もうとした視線の主は、しかし、聞こえてきた三人目の声に動きを止めた。
「お二人とも。何をしておいでですかな?」
「これは、徐晃殿。いえね、象を見ていたのですよ」
「ああ、先の戦で南蛮軍が使っていたものでござるな」
 訓練を終えてきたのか、担いでいた得物の大斧を傍らに置いて、徐晃は額の汗を拭った。
「背に乗れば、遥か彼方まで見渡せそうでござるな」
「ええ、本当に。このようなものが何頭も居たら、それは精悍な眺めでしょう」
「しかし何を食うんだろうな、こいつ」
 傍らの和やかな会話を耳にしつつ、徐晃はニコニコと人懐こい笑みを浮かべて繋がれている象に手を伸ばしかけた。その途端、
「徐将軍っ!」
鋭く叱責されて思わず目を丸くする。
 振り返ると、黒羽扇を手にした軍師が柳眉を怒らせて歩み寄って来るところだった。
「軽々しい所作は慎まれよ。仮にも敵国が所有していた獣に不用意であろうが!」
「大丈夫ですよ、司馬懿殿。この獣はそれほど凶暴なものではありませんよ」
 行き場をなくした手を持て余している徐晃の代わりに、張コウがにっこりと自慢の笑みを浮かべて見せる。
「だって、ほら。身体は大きいですけど、小さな目がとっても優しいんです。そう、まるで徐晃殿のようではないですか。ね、そう思いませんか?なんて素敵なんでしょう!」
 自説が気に入ったのか、同意を求めて晴れやかな顔を向ける張コウに、司馬懿は薄い唇を歪めて口篭った。
「お前は徐晃贔屓だよな」
 苦笑する夏侯淵に、張コウは「だって徐晃殿は良い人ですから」とあっさりと答える。眉を顰めたままの司馬懿がちらりと視線を横に流すと、徐晃は赤い顔をして困ったように頬を掻いていた。
「徐将軍。随分赤くなっておられるようだが、それほどお暑いですかな?」
 常態でも不機嫌そうな顔を更に不機嫌そうに歪めて、司馬懿は冷たく口にした。すると、ますます所在なさげに徐晃は大きな身体を縮こませた。
「暑いですよ!それにしても、司馬懿殿はいつも涼しげで羨ましいことです」
 ここでもまた、言われた当人ではなく弁の立つ張コウが返事をする。
「常に半裸な張将軍こそ涼しかろう」
 厭味たっぷりな言葉にも、張コウは高く結った長い髪を揺らせて優雅に礼をしてみせた。その仕草に、酷く馬鹿馬鹿しい気分と苛立ちが募ってきた司馬懿は、目を眇めると無言で踵を返した。 しかし、
「ちょっと待ってください!」
「?!」
不意に片腕を掴まれて、驚きで足が止まってしまう。
 本能的に振り払おうともがいたが、束縛の手は一向に緩む気配がなかった。
「せっかくだから、比べてみましょう」
 怒りに青褪める司馬懿にお構いなしに、張コウは掴んだ手を引くと長い袂をさっと捲り上げた。
 滅多に陽に晒されることのない真っ白な腕が、紫色の衣から現れる。
「うわぁ、司馬懿殿、腕細いですねぇ。もう少し養生されたほうがよろしいですよ?」
「大きなお世話だっ!」
 所詮文官であるから仕方ないとは言え、司馬懿は己の生白い痩せた腕があまり好きではなかった。怒りと鬱憤が極度に達して米神がビクビクと脈打っている司馬懿に、夏侯淵は面白そうな視線を向け、徐晃は狼狽えたように目を泳がせた。
「無礼であろう、張将軍!」
「まぁまぁ。ああ、でもやっぱり!ね?徐晃殿」
「は?」
 魏軍でも一二を争う奇矯者二人にしっかり挟まれる格好になった徐晃は、どうしていいか分からず滝のような汗をかいていた。その上、張コウに意味も分からぬ同意を求められて言葉に詰まる。
 しかし、張コウはそんな同僚の様子を気にもせず、自らの腕を司馬懿の腕に沿わせると、良く磨かれた象の立派な牙近くへ掲げて見せた。
「ほら、象牙色。司馬懿殿の肌の色ですよ!私の肌も十分白いと思っていますが、司馬懿殿の肌ほうが、この象の青味がかった牙に似ています」
「・・・それは私が青白いということか?」
「嫌ですね、司馬懿殿。象牙の肌といえば、誉め言葉ですよ!ああ、羨ましい」
 妙な羨望の目で見つめる張コウから無理やり腕をひったくって、司馬懿は大急ぎで袂を元通りに直した。
 燻っていた怒りが限界まで達したのを感じ、唇が微かに震える。
 素早く思考を巡らせ、並ぶ者ないと言われる毒舌を今度こそ披露してやろうと息を吸った。その時。
「だが、張コウ殿」
「はい、なんでしょう?」
「拙者は、その牙の色よりも、司馬懿殿の肌の方が数段綺麗だと思うでござるよ」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 大真面目な顔で告げられた言葉に、司馬懿は吸った酸素を上手く吐き出せないまま再び息を呑み込んでしまう。その隣で、張コウは翠がかった瞳を数度瞬かせた。
「・・・な、なにか可笑しなことを申したでござるかな?」
 動きを止めてしまった二人に只ならぬ気配を感じて、徐晃は小さく伺うように問いかけた。
「あー・・・えーと、それは一応誉め言葉、だよな?」
 いつまでたっても声を発しない二人の代わりに、夏侯淵が大仰そうに口を開く。「勿論でござる」と至極まじめに応じる徐晃に、思わず小さなため息が零れた。
「司馬懿殿は、何にでも優れていると感服した次第でござる」
『肌が綺麗って普通男に使う誉め言葉じゃねぇだろ・・・。(張コウじゃあるまいし)』
 夏侯淵は、内心の突込みをかろうじて声にせず飲み込んだ。しかし、次の瞬間高らかに響き渡った笑い声にぎょっと丸い目を剥いた。
「ふっはははははっ!それはそうであろう!この私が人より劣ることなどないっ!」
 黒羽扇で口元を隠して、司馬懿が得意げに哄笑する。夏侯淵は改めて突っ込む気にもなれず、呆れ顔で周囲に視線を巡らせた。
 すると、黒羽扇の陰から覗く口元に目を止めたらしい徐晃が、邪気のない笑みを浮かべて更にどうしようもない一言を放った。
「司馬懿殿は八重歯も愛らしいでござるな」
 響いていた哄笑がピタリとやむ。
 急に静かになって俯いてしまった司馬懿を、徐晃は心配そうに覗き込んだ。
「司馬懿殿、どうなされた?お顔色が赤いようだが大丈夫でござるか?」
 気遣わしげな問いかけに、どこか楽しそうな声が応じる。
「これはいけない!暑さでのぼせられたのかもしれませんよ。ほら、足元も少々不確かなのでは?」
「なんと!それは大事でござる。天幕へ戻られよ。すぐに冷えた水を用意致すゆえ」
 頭上で交わされる会話をなんと思ったか、焦った徐晃の声にも司馬懿は黙ったまま顔を上げようとしない。のみならずあまりにも俯き過ぎたせいで、張コウの言うように足元が僅かにぐらついた。
「御免!」
「う、わっ??」
 急に浮力を感じて、司馬懿は思わず間抜けな声を上げた。次の瞬間、自分の置かれている状況を把握して、今度こそ耳まで真っ赤に染め上げた。
「お、下ろされよ、徐将軍!」
「大人しくなされよ。すぐに天幕へお連れ致すでござる」
「自分で歩ける!下ろせ・・・っ」
 女人か子供のように抱きかかえられた司馬懿は、両の犬歯をまさしく牙のように剥いて抗議の拳を振り上げた。しかし、溜まっていた鬱憤と暑気のせいで本当に頭がふらついて、ぐったりとその腕を垂れてしまう。
「ご無理をなさるな。貴殿あっての我等でござる。それに、司馬懿殿にもしものことがあられたら、殿にも申し訳が立たぬでござるよ」
 徐晃は、腕の中の身体のあまりの軽さに不安を覚えながら真剣に訴えた。暴れるのを諦めた司馬懿は、しっかりと黒羽扇で顔を隠したまま広い胸元に頭を預けた。
「わ、私が軟弱なのではないぞ。過ぎる陽光は毒なのだっ!」
「そうやもしれません。いや、そうでござろう。司馬懿殿は無骨な拙者などとは違われる方故」
「・・・ふん、馬鹿めが。・・・・・・惑わすものは太陽だけではないわ・・・」
 苦々しく呟かれた言葉は、小さすぎて誰の耳にも届かない。
 大騒動になっている天幕を遠目に眺めて、それまで呆気にとられていた夏侯淵はやっと声に出して大きな息を吐いた。
「なんだったんだぁ、ありゃ?」
「さあ?」
「しかし、あの陰険で冷血な生意気軍師に『愛らしい』なんて言えるたぁ、徐晃も相当の変わりモンだな!」
「そうですか?可愛らしいじゃないですか、司馬懿殿ったら」
 納得いかなそうな夏侯淵にくすりと笑いかけて、張コウは楽しげに身を翻す。
 幸か不幸か、こんな所で一番タチの悪い人物に一番の弱みを握られたことを、天下の名軍師たる司馬懿はまだ気づいていなかった。