がんばれ仲達くん2
「馬超の首をとらない!?」
 そう広くもない幕舎の中に動揺が走る。
 動揺を起こした当人は「そうだ」と言うように重々しく頷いた。
「何を仰いますか!馬騰を斬首に処しておいてその嫡子は逃すなど、王たるもののなさることではございません!自ら後顧の憂いを残す愚行も同然!」
 冷たく激した声が、面と向かって主を痛烈に非難する。後方に控えていた司馬懿は、その剣幕にぎょっとした。
 曹操軍の涼州攻めは大詰めを迎えていた。じわじわと領土を削り取られた西涼君主・馬騰は、残された最後の一州に残党を集め篭城するのみとなっていた。
 いくら悪足掻こうと、もはや勝敗は決したも同然。総攻撃をかける前に、曹操とその近臣たちは敵将の処断を確認していた。
 馬一族に連なる者は斬首。その他の投降する将は受け入れる。
 元から決まっていた事項の再確認に過ぎないと全員が思っていた。
 曹操が、予期せぬ一言を発するまでは。

 “馬孟起は、生かさず、殺さず、そのまま放置”

「酔狂にもほどがある!あの男は第二の呂布。そして、武のみの呂布とは違うのですぞ!」
「口を慎め、奉孝。儂の命令は絶対だ」
 坐臥に深く座ったまま、卓の向かいから睨みつけてくる白皙の面を鋭く見返す。己が睨まれたわけでもないのに、司馬懿は背筋が凍るような悪寒を感じた。
「司馬懿。馬超の退路だけは塞がぬよう指揮を執れ。張遼、分かったな」
 用は済んだとばかりに曹操は席を立つ。
 諸官の退席した幕舎の中には、紺衣の姿がいつまでも佇んでいた。



 涼州制圧戦は、曹操の思惑通りに終わった。馬一族は滅亡。馬超は従兄弟の馬岱を連れ、何処へか落ち延びた。
 万事は予測通りといって良かった。
 だが、戦後処理の書簡を山ほど抱えたまま司馬懿は重い溜息をついた。
 あの論争の日以来、郭嘉は臥せったまま自室から出てこない。会えるのは薬師と限られた下女だけで、容体がどうなのかも良く分からなかった。
「はぁ・・・」
「溜息など吐かれていかがなされた、軍師殿?」
 声をかけられて目を上げると、室の入り口に最近見慣れた穏やかな笑顔があった。
「徐将軍か。いや、特になんでもないのだが。さすがに雲母のごとく沸いて出る書類に些か飽きがきたようだ」
「ははぁ。これは何時にもまして高い山を築いてござるな。拙者がお手伝いできることなら良いのですが」
「将軍は将軍で為すべき事があろう、気にすることはない」
「いえ。ただ拙者が司馬懿殿のお役に立ちたいと思うのでござるよ」
 にっこりと笑いかけられて司馬懿は言葉に詰まる。
 人の厚意を斜めに穿つのが当然の司馬懿にして、未だにどうにも徐晃の笑顔に裏を見出すことが出来ずにいた。
「軍祭酒殿がいらっしゃれば、司馬懿殿のご負担も軽くなりましょうな」
「それはそうだが」
「軍祭酒殿も長く患っておいでのようで心配でござる。張遼殿にご様子を伺って参りましょうか?」
「え?張遼将軍は軍祭酒殿とお会いになっているのか?」
「そのようでござる」
「殿はお会いになれないらしいが?」
「そうなのでござるか?だが確かに昨日、張遼殿が軍祭酒殿の室から出てこられるのを拝見しました」
 ほう、と司馬懿は小さく相槌を打つ。
 面白い話のような気もした。上手くすれば、鉄面皮の将軍と隙のない軍祭酒の裏を掻けるのではないかと思う。
 だが、こちらをじっと見つめている徐晃の黒い眸を見ると、たちまちそんな考えは甘いと言う否定の確信が湧いた。
 そもそも、あの郭嘉が徐晃に見られて困るような失態をやるはずがない。
「張遼将軍に話をしてもらえようか。出来れば、私も軍祭酒殿にお会いしたい」
 頼まれごとを快く引き受けると、徐晃は踵を返して出て行った。
 再び落とされた静寂の中で、司馬懿は閉じられた扉を暫く見つめていた。
 『ご無理をなさるな』と言う社交辞令が、ひどく心地よく響くのを不思議に思いながら。



 その日の夕刻、太陽も西の地平に落ちようかと言う頃、司馬懿は廊下で張遼に呼び止められた。
「郭嘉殿にお会いしたがっていると、徐晃殿から伺った」
「左様。お加減がよろしいなら、見て頂きたい案件がある」
 張遼は司馬懿の抱えている書簡の束に、その細く鋭い目を向けた。
「仕事をなさるかは分からん。だが、会うことは出来るとの返事は貰っている」
「それは有難い。張遼将軍はよほど軍祭酒殿にご信頼されているご様子。殿以上の特別待遇、羨ましいものですな」
 司馬懿は言葉にちらりと毒をのせてみる。だが、表情の動かぬ顔からは内心を伺い知ることは難しかった。
「今から参られるか?」
「喜んで」
 張遼はそれきり何も言わず廊下をどんどん歩いていく。目的の室まで来ると、扉を叩き来意を告げた。そして、そのまま下がろうとする張遼に、司馬懿は意外に思って声をかけた。
「将軍は入られぬのか?」
「私はもう用はない。郭嘉殿もご承知だ」
 引き止める理由はないので司馬懿もそのまま扉を押し開く。室に消える寸前、張遼の小さな声が耳に届いた。
「先ほどの言葉は、寧ろ逆ではありませんかな」



「どうした、仲達。難しい顔をして?」
 入るなり、そう声をかけられた。張遼が言ったことの意味が分からず眉間に皺を寄せていた司馬懿は、即座にその懸案を消した。
 郭嘉は長々と坐臥に寝そべって、片手に杯を持っていた。
 薄く笑う顔は蒼白かったが、特段具合が悪そうにも見えなかった。
「お加減は如何ですか、軍祭酒殿?」
「悪くはない」
「それは・・・まさか酒精ではありますまいな?」
「酒だよ」
 あっさり認める言葉に、司馬懿は眉宇を曇らせる。それを見て、郭嘉は楽しげに声を立てた。
「薬酒だ。おまえも飲むか?健康になるぞ」
「またの機会に致しましょう。それより、お加減がよろしいなら目を通していただきたい案件もあります。そろそろここから出ては如何ですか?」
「そうだな。もう一通りケリもついたことだし明日は陽の光を見るか」
 てっきり断られるものと思っていた司馬懿は、ついまじまじと琥珀色の双眸を見返した。
「なんだ?」
「・・・いえ。予想よりご容体も悪くないようで安心致しました。薬師と一部の者以外面会出来ないような状態でしたので、よほどのことかと思っておりました。軍祭酒殿のお姿を見れば殿もお喜びになられましょう」
「ああ・・・」
 曹操の名に柳眉が微かに上がる。その様子を司馬懿は注意深く見守った。
 曹操と郭嘉の間に僅かでも溝が出来るのであれば、それは司馬懿にとって不利になることではなかった。
「殿もお忙しく、軍祭酒殿にお会いしたくとも叶わなかったに違いありません。かく言う私もそうです。しかし、張遼将軍が特別にお会い出来ていたのなら、私ももう少し早くお見舞い申し上げるよう努めるべきでした。そうすれば、殿もご安心されましたでしょうに」
 立て板に水で喋る間、郭嘉は手の中の杯を揺らして詰まらなそうな顔をしていた。
「張遼を特別扱いした覚えはない。奴は、私のやり方を良く知っていたまでのこと。殿はまだ内心で煩悶しておいでだろうよ。私に会いたくないと思って」
「殿が軍祭酒殿にお会いしたくないなどと思うはずがないではないですか!あれほどご信頼を置いている貴方に!」
「仲達、馬超を逃がしたこと、どう思う?」
 話が核心に触れたと思い、司馬懿は憂いだ表情をつくるとわざと間をおいた。
「・・・・・・正直なところ、殿のお考えは分かりかねます。ただ、反乱の種を蒔いたことは確かかと」
「そうだ。愚かにも自分で自分の首を絞めているのさ」
「軍祭酒殿!そのようなことは、」
「なに、あの方の考えたことなど丸分かりだ。錦馬超の武を間近で見て、その艶やかさに心を奪われたのだ。優れた人物を見ると、もっと見ていたいと思う。関羽にしてもそうだ。手に入るなら手にいれ、出来ぬなら、」
「・・・出来ぬなら?」
「逃して自分を追わせ、その緊張と駆け引きを存分に楽しんでから、すべてを奪って幕を引く」
 曹操の好みそうな悪趣味だと司馬懿は思う。ただ、語る郭嘉は呆れたような色を濃くその白面に浮かべた。
「童子(わらし)のようだろう?そのせいで周囲がどれほど苦労するかも十分理解しているのに止められぬ。しようのない方だ。まぁ、それ故に働き甲斐があるとも言えるが」
 コトリと杯を円卓に置いて、郭嘉は立ち上がった。その流れるような仕草を目に入れながら、司馬懿は首を傾げた。
「軍祭酒殿はお怒りになっていたのではないのですか?」
「怒る?何故?」
「それは先日、」
 あれほど物凄い剣幕で曹操を非難していたではないか。
 言いかけた言葉を飲み込む。軽く唇を噛んだ司馬懿の様子を見て、切れ長い眸が三日月形に細まった。
「止められぬと思ったから腹が立ったのは確かだ。だが、なにか勘違いしているようだがあの程度のことで本気で怒っているのではないぞ。室に篭っていたのは具合が優れなかったせいと、それなのにやることが山ほどあったからだ」
 机の傍にあった籐箱を取り出して、その中身が見えるように司馬懿のほうへ傾ける。中には墨で汚れた地図と無数の紙片が入っていた。
「それは?」
「私の使っている方策(ツテ)のひとつ。馬超が何処へ向かい、今何処にいるか。そして、これから何処へ行こうとしているのか。いや。寧ろ、これからあの男を何処へ誘導するべきか」
 紙片を摘み上げて、郭嘉はニヤリと笑った。
「大体、片はついた。明日、殿や仲達にも聞いて貰おう」
 司馬懿は呆気にとられて瞬いた。病か気鬱で臥せっているとばかり思っていた人は、室から出ぬままに災いの種を監視していたと言っている。
 俄かには信じられずに、眉間に皺が寄った。
「では、張遼将軍は・・・」
「奴は頭が切れ、私のやり方を良く知っている。私のかわりに、情報を受け取ることも出来る。それだけのこと」
「殿はこのことをご存知なのですか」
「知っているだろうよ。だから、無理に私に会おうとしない。どうやって取り繕おうかと、あれこれ考えている最中さ」
 馬鹿馬鹿しいと言いながらも、郭嘉はひどく楽しそうに微笑んだ。
「仲達、おまえのほうの仕事も溜まっているだろうが、出来るだけ一人で片付けてくれ。私はまだすることがある」
「は・・・」
「もういいか?少し疲れた」
 笑みをおさめた人の顔は、薄明かりに先ほどよりも蒼褪めて見えた。
 司馬懿は黙って拱手すると、渡すはずだった書類を抱えて室を退席した。



 唇を固く引き結んだまま回廊を歩む。擦れ違う諸官は、司馬懿の纏う鬱の雰囲気に慄いて道をあけた。
 だが、周囲の様子も目に入らないくらい考えに沈んでいた司馬懿は、己を強く呼び止める声に険しい顔を向けた。
「どうした、誰かの通夜か」
 声の主は曹操だった。
 その顔を見ればいつもは目を背けたくなる司馬懿だったが、この時ばかりはきつい目で見返した。
「生憎亡くなった者はありません。ただ、酷く疲れている方には会いました。面倒くさいと連呼するのは珍しくなくても、疲れたなど口にするのを終ぞ聞いたことはなかったのですが」
 冷たい声に、意志の強そうな眉がぴくりと上がる。
 曹操は暫しバツの悪そうに顎鬚を撫でていたが、口の端を緩めるとふっと笑った。
「もうそろそろ、カタがついていただろう?」
「・・・ご明察でございます」
 返答に満足そうに笑みが深くなる。曹操はそのまま、司馬懿がやって来た方向へと足を向けた。
「司馬懿。箱庭を出て良かっただろう?越えねばならぬものは、おまえの思うよりも数多あるぞ」
 擦れ違いざまに投げられた言葉に、低頭したまま司馬懿は黙した。
 完全に気配が遠ざかってから顔を上げる。
 眉間に深い皺が刻まれているだろうことが己でも分かった。
 そして。
 曹操と郭嘉。
 この二人に関わっている限り、どうやら平安というものは得られそうにもないことも。
「忌々しい。この馬鹿めが!」
 誰にむけたとも知れぬ悪態を吐いて。
 徐将軍は何処に居るだろうと、司馬懿は再び歩き始めた。