がんばれ仲達くん
「見つけた!こんなところに居たのか、仲達」
 ひょいっと肩越しに現れた白い顔にギクリとなる。だが、動揺を見せる代わりに、司馬懿は思いっきり渋面を作った。
「なんだ、その嫌そうな顔は」
「生まれつきこういう仏頂面にございます。ご容赦ください、軍祭酒殿」
「ふぅん。まぁどうでもいい。それよりも、吾はこれから張遼と鍛錬を兼ねて狩りに行くのだ。一緒に行こう」
 にっと、一部では花のかんばせとも謳われている繊細な面(おもて)が綻ぶ。だが、その笑みは司馬懿には悪魔そのもののように見えて顔が引き攣った。
 元々、曹操に仕えるつもりなどなかった司馬懿が、長安の地で強制登用させられて早半年。意に沿わぬ仕官でも、矜持の高い司馬懿は下位に甘んずるを良しとせず、持ち前の才知を発揮して頭角を現してきていた。
 このままならいずれ曹魏を乗っ取れるかもしれない。
 そういう野望が僅かに芽生えた矢先、孫呉対策のために合肥に居たはずの筆頭軍師が、前触れもなく長安へやって来た。
 郭司空軍祭酒。
 無論、名前は知っていた。曹操の寵愛する知での懐刀。
 遠からず最大の障壁となるであろう人物として、司馬懿は情報収集も対策も怠りなくしていた。
 いや。
 していたつもりだった。
 実際会った郭嘉は、噂などよりも遥かに破天荒で始末の悪い男だった。
 何もかも見透かすような琥珀の目が気に入らない。そして、なにより司馬懿を困惑させたのは、
「何を黙りこくっている。張遼が待っている。行くぞ」
「わ、私はこれから片付けねばならぬ仕事があります。張遼将軍とお二人で行かれてください」
「ぼうっと空を見ていた人間が片付けねばならぬものとはなんだ?第一、仲達なら仕事などすぐに片付くだろう?少しくらい時間を潰しても構わぬはずだ。それでも出来ぬと言うのなら吾が手伝ってやってもいいが、おまえはそれほど処理能力が低かったかな?」
 流れるように喋り続けながら、郭嘉は司馬懿の右腕を掴み取って引っ張っていく。その力の強さに、思わず司馬懿は声を強くした。
「分かりました!少しだけお供いたします。お手をお放しください!」
「そうか。良かった」
 振り向いた顔が楽しそうに笑う。笑いかけられて、司馬懿はどんよりと気が重くなった。
 どうせまた張遼と一緒に、武芸があまり得意ではない己をからかう算段なのだ。
 そう。
 何よりも司馬懿の計算外だったのは、郭嘉の武。
 白皙の、瘠せた文官然とした容姿に騙されてはいけない。戦場に出た郭嘉は、その知を揮うこともさることながら、自らが先(せん)に立って剣を振るった。
 恐ろしいことに、その武芸は一品将軍である張遼にさえ引けを取らない。
 知略だけなら負ける気などさらさらなかった。だが、司馬懿は武芸に限らず、身体を使うことすべてが不得手なのだ。
 今までは軍師だからと奥まっていれば良かったのだが、郭嘉が来てからはそうもいかなくなった。早々にそれを見抜いた郭嘉は、まるで暇潰しだと言わんばかりに、司馬懿を乗馬や狩りに連れまわした。
 そうやって仕事を疎かにしているように見えて、郭嘉の策に手抜かりがあったことはない。更に、武に秀でているからと言っても武骨とは程遠く、寧ろ身体は人より弱いと言うワケの分からなさ。
 心が折れたとしても誰が咎められよう。
 このような男が諾として曹操に仕えているというのなら、その曹操とはどんな奇人なのか。
 今まで独りで頑張ってきたことが水泡に帰すような気がして、司馬懿は重い溜息を吐いた。
「どうされた、司馬懿殿?顔色が優れぬようだが」
「お気遣いご無用」
 轡を並べている張遼にそっけなく応じる。張遼は、大将軍である許都の夏侯惇に次ぎその武を讃えられる勇将だが、所詮この男も郭嘉贔屓なのは見え見えだった。
 気が、重い。
 その夜、筋肉痛になった腕や脚を摩りながら司馬懿は牀榻に突っ伏した。どうすれば事態が良くなるかを考えながら。
 翌朝。
「殿が来られる?!いつ?」
「今日の夕刻には着く予定だそうだ」
「伺っておりませんでしたが」
「吾も驚いている。でも、そろそろ来る頃合だとは思っていた。文若殿も手に負えなくなったのだろう」
 墨をつけた筆を宙に翳して、郭嘉は空になにやら絵を描いた。
「仲達?顔が真っ青だぞ?」
「いえ・・・・・・」
「戻って休め」
「は?」
「具合が優れぬのなら休んだほうがいい」
「は・・・」
「ただし、殿が着かれる刻限には必ず出てくるように。いよいよ錦馬超との戦が始まるぞ」
 筆を持つ手が止まり、楽しそうに切れ長の双眸が細められる。 
 策を用意して置けと言う言葉を、司馬懿は半ば以上受け流して聞いた。



 木立の疎らな、何処までも広がる平原の彼方に土煙が起こった。瞬く間に『曹』の旗が翻る騎馬隊の姿が見て取れるようになる。
 張遼の命で城門が開かれると同時に、一団の中から一頭の葦毛の馬が疾風(はやて)の勢いで躍り出てきた。
「出迎えご苦労!」
 良く通る強い声が響き渡る。進み出た張遼は慇懃に頭(こうべ)を垂れて、遠路を来た主を仰ぎ見た。
「お待ち致しておりました、殿」
「うむ」
「童のように落ち着きないお人だ。そのように急がなくとも我らは逃げませぬよ」
「おお、奉孝!」
 笑いを含んだ揶揄うような声音に、曹操は気を悪くするでもなくひらりと馬を下りた。ただ一騎、主に追いついて来ていた見慣れぬ白馬の武将も倣ったように地に下りる。
「ご苦労であったな」
 伸ばされた埃にまみれた腕をついとかわして、郭嘉は嫣然と微笑みながら己の背後を振り返った。
「なに。この地は吾が来る前から張遼と司馬懿によってよく治められていた故、苦労などありませぬ」
 向けられた目線の先を曹操も追う。
 覇気に満ちた、強すぎるほどの眼光に射竦められて司馬懿は一瞬息を呑んだ。登用されてからずっと上洛を先延ばししていたため、改まって曹操と顔をあわせるのはこれが初めてだった。
「おまえが司馬仲達か」
 問い掛けに、用意していた応答を口にしようとする。だがその途端、城内が俄かに騒がしくなった。
 幾人かの慌てた怒鳴り声と、物の散乱する音が起こる。
「何事だ!?」
「ち、張遼将軍!実は、昨日生け捕られた猪を、料理番の者が誤って放してしまい、」
 応えが終わる前に、更なる騒音と悲鳴が重なった。
 昨日生け捕りにしたと言うとあのやたらと巨大で凶暴な猪かと司馬懿は思う。張遼が射殺そうとしたのを、郭嘉が生け捕れと無理を出したのだ。
 思い返すのも束の間、とても一般人には手に負えそうにない黒い塊が、正しく猪突猛進に突き進んで来るのが視界に入った。
「殿」
 張遼が青龍刀を構えて踏み出そうとする。その袖をそっと引いて、郭嘉は司馬懿に振り向いた。
「仲達殿、弓を」
「は?」
「弓だ。射殺せ!」
 放って寄越された弓矢に司馬懿は目を瞠る。だが、躊躇している暇はなかった。
 咄嗟に弦を絞って矢を放つ。
 狙いは過たず、向かって来る猛り狂った獣の眉間を見事に貫いた。
 仕留めたと、周囲から歓声が起こる。だが、文字通り猛進していた獣の巨体は、慣性に従って司馬懿のほうへ突っ込んできた。
「う、わ!?」
 立ち竦んだ司馬懿は、衝突の衝撃を思って目を瞑る。
「・・・・・・?」
 だが、何時まで経ってもそれはやってこなかった。訝しく思って目を開くと、目の前で見知らぬ男がにこやかに笑っていた。
「いや、お見事でござる、軍師殿」
 数歩先で事切れた猪が横倒しになっている。その男が獣の進路を変えたのだと気づいて、司馬懿はきつく目を細めた。
「其許は何方(どなた)だ?」
「これは失礼。拙者は徐晃と申す。先般、夏侯淵殿に推挙して頂き、殿の警護を仕ることになり申した。以後お見知りおきを。いや、それにしても軍師殿の弓矢、お見事でござった!」
 裏のなさそうな朴訥すぎる表情を向けられて、司馬懿は思わず口ごもる。その様子を見ていた張遼は、深く突き刺さった矢を抜きながら静かに付け足した。
「司馬懿殿は、馬の扱い方もなかなかのものです」
「ほう。張遼が褒めるとは珍しい」
 それまで黙していた曹操の声に、規律を取り戻した一同は改めて低頭した。
「司馬懿。知略だけの詰まらん男かと思っていたが、どうやらそうでもないようだな」
「面白みはありませんが、策も過たぬものをつくります。ご一考頂くのもよろしいかと」
「うむ」
 郭嘉の言葉に頷くと曹操はひらりと馬へ飛び乗る。入城する主の傍らには、当然のように紺衣の軍師が付き従った。
 拱手したまま、司馬懿は二人を送る。通り過ぎる瞬間、琥珀色の眸が可笑しそうに笑った気がした。
『ほら。鍛錬しておいて良かっただろう?』
「・・・・・・・・・」
「軍師殿?我らも参りましょう」
 隣に立っていた徐晃に促され、司馬懿は我に返る。一歩先に居た張遼が、ほんの僅か目線を寄越した。
「あの人は、ただ意地悪なだけではない」
 呟きに、意地が悪いということは否定しないのかと司馬懿は思う。それでも、己の心持ちが随分と違ったものになったような気がした。
 とりあえず、張遼が郭嘉に寄るというのなら、己は誰を引き入れよう。
 隣に立つ武人を見上げる。
 なぜか照れたような笑みを返されて、司馬懿も薄い唇を綻ばせた。