切望
寒風が身を切った。
水に侵された下ヒ城に、最早居場所はない。
否。
居場所など、最初から求めてなかったのかもしれないと。
鬼神と恐れられる主を思い浮かべて、頬に冷笑が浮かぶ。
慣れぬ剣を握り締めた掌は、皮が剥け、感覚が鈍くなりつつあった。
圧倒的な劣勢。
それでも。
追い詰められた呂布は、誰にも止められぬ荒れ狂う手負いの獣となり。
今や両軍ともに、壊滅寸前となっていた。
もう、何処にも居場所などありはしない。
しかし。
此処に至ったからには、敵総大将を見逃すわけにもいかなかった。
剣を握りなおし、凍えた大地を駆ける。
護衛はいない。
しかし、敵の雑兵もいない。
目指すのは、曹孟徳。

己が、裏切った男。



視界に、紺衣が翻った。
明らかに、身分のある男。
ただ、馬もなく、手にした剣だけしか持たぬ有様の。
まったく、己と同じ惨状の。


「どけっ!その先に曹操がいるのだな!」


有無を言わさず切りかかる。
剣技には自信がなかった。
それでも、最強と謳われた呂布軍に属し、幾度か手ずから教えを請うた身なれば、並みの文官に劣るとも思わない。
細剣同士、何合か打ち合う。
華奢な見た目にそぐわず、男はそれなりの使い手だった。
金冠に紺衣。
女と見紛う美貌に、知性の光を湛えた怜悧な双眸。


「そうか。おまえが郭奉孝だな」


曹操の懐刀の。
そして、この下ヒ城を、罪なき民を、冬の水に沈めた。


「そういう貴方は、陳公台であろう」


乱れた息の下、良く通る声が応じた。


「吾が殿を裏切った男。生憎、ここは通せぬ。貴方はあの戦鬼とともに、この下ヒの枯れ地に眠るがいい」


にっと、薄い唇が不遜に歪められる。
曹操の意に沿いそうな男だと、斬撃を受け止めながら胸中に納得した。

私は、あの男の意には沿わなかった。
では、あの方の意には沿っていたのだろうか?

幾度も繰り返した疑問に、答えなど出るはずもなく。
技量に大差ない打ち合いは、悪戯に時ばかりを費やした。
このままでは、曹操を取り逃がしてしまう。


「っ!」


焦りが、一瞬の隙を生む。
鋭い切っ先を喉元に突きつけられて。
終わったと。
歯を食いしばった瞬間、目の前の男は、喉を貫くはずだった剣ごと大地に屑折れた。
激しく咳き込む苦しげな音と、白い手を染め上げる真っ赤な色。


「病か・・・」


剣を構え直し、細い首筋にぴたりと宛がう。
睨み上げてくる目はそれでも光を失わず、朱に染まった唇は嫣然とした笑みを湛えた。


「吾の命など惜しくもない。あの方さえ、生きていれば・・・」


剣を掴み直そうとした手を蹴り上げる。
決着の一閃に、断末魔の声は聞こえなかった。




「馬鹿ですね。どうして戻って来られた?郭嘉殿は、貴方を逃がすために戦っていたのに」


紺衣が血に濡れる瞬間、駆けて来る見知った姿を視界に捉えた。
伸ばした手が届かない。
自信に満ちたその顔が絶望に彩られるのを、初めて見た気がした。


「どのみち、その人はそう長くは生きられなかったでしょうが」
「・・・知っておった」


何も言わず、朱に染まった身体を抱き締めていた曹操が乾いた声で呟く。
荒れた大地に遺骸を横たえると、きつい眼差しが静かにこちらを射た。


「陳宮、久しいな。お前こそなぜここにおる?主はどうした?」
「呂布殿は、まだ南門で戦っておられます。曹操。私は貴方を取り逃がすわけにはいかない」


剣先を向けると、見慣れた尊大な笑みが広がった。


「お前の剣の腕で儂に敵うと?」
「さあ」
「陳宮よ。お前の理想は、叶ったのか?」


高い金属音が響く。
さすがに重い一撃は、弱った腕を痺れさせた。


「呂布は、お前の夢を叶えてくれたのか?!」


火のような双眸を睨み返す。
かつて、この眸に映る理想に焦がれたこともあった。
しかし、今は。


「貴方には分かるまい!」


力の限り押し返す。
それでも、さしたる痛手を与えることも出来ず、逆に肩に鋭い痛みが走った。
やはり、無理なのかと思う。
文官では武将に敵わない。
ただ、少しでもあの方の役に立ちたかった。

気づいていた。
私の夢はいつの頃からか、曹操に語ったものとは、遠くかけ離れてしまっていた。
私の。
私の、ただひとつの望みは・・・・・・。

振り下ろされる剣に、最期の時を見る。
しかし、覚悟を決めた耳に、鈴の音のような声が響いた。


「諦めてはなりません、陳宮様っ!」
「貂蝉殿!?」
「戦うのです!曹操を討ち取るのです!」


玉錘が、奸剣を持つ手を跳ね上げる。


「そして、共に奉先様の元へ戻りましょう。陳宮様がいなくては、あの方が悲しみます」


大輪の華のような笑顔が、凍えた空気を溶かす。
己の血で滑る柄を握り直し。
可憐な舞姫に背を預けて、過去の残夢へ刃を向けた。





奇妙なほど静まり返っていた。
数日振りに顔を出した朝日は、凍った城と大地を暁の色に染め上げて。
鳥の囀りが、澄んだ空に遠く聞こえる。
しかし、その他の生き物は、すべて死に絶えてしまったような。
そのような静寂が、あたりを押し包んでいた。
追い詰められた曹操は、最後は自ら命を断った。
黄泉へ連れ行く亡骸に、その身を添わせるようにして。
ようやく手にした総大将の首。
しかし、勝鬨を上げようにも味方の散乱は凄まじく。
呂布を探していたはずなのに、いつの間にか貂蝉すら見失っていた。


勝ちとも言えぬ勝利。
なにもかもを失って。
それでも。
たった一つの望みは、叶えられたのではないかと思う。
重い足を引き摺りながら、下ヒの東門に向かう。
ちょうど。
昇る太陽に向かって、華奢な背が歩み出すのが見えた。


「奉先様!」


柔らかな声音。
歓喜を滲ませた。
その向こうに、見慣れた、威風堂々たる姿が見えた。

私の望み。
それは。
居場所など求めなかったあの方に、安らげる場所を差し上げること。
領土でも城でもなく。

大切な人の、腕の中に。

黄金の鎧に弾かれた光が眸を射る。
眩しさに目を開けていられなくなって、冷たい石畳に膝をついた。
もう一度、二人の姿を見たくて顔を上げる。
しかし、視界が急に暗くなり、辛うじて、大きな身体を抱きとめる貂蝉だけが目に映った。

貴方の居場所は、その腕の中。

肩から胸を伝い落ちるものが、膝下に赤い水溜りを広げる。
体中が冷えていくのを感じた。
それでも、まだ、寄り添う二人の姿を見ていたくて。


「私は、貴方の意に沿うことが出来たのでしょうか・・・」


私の理想を叶えるのも悪くないと、こともなげに仰った貴方の。
敵方の人間であった私を、無条件に受け入れてくれた貴方の。
けれど。
いつしか私は、

ただ、貴方のことを。


「殿・・・・・・」


頬を伝うものは歓喜の涙だと。
閉じた瞼の裏で思う。
無双の武と絶世の美が寄り添う光景を、最期の目に焼き付けて。


おやすみなさい、と。

舞姫の囁く優しい声が、
光に温んだ風に溶けた。




衝撃の貂蝉以外全滅ED…。