淡雪
「上手く父に取り入ったものだな。才だけでなく、容色まで武器にするか」
 書簡を抱え回廊を歩いていた郭嘉は、不躾にかけられた声に歩みを止めた。
「これは、子桓様。ご機嫌よう」
「・・・聞こえなかったのか、郭嘉」
「何がでございますか?」
「成る程。神経が相当強かに出来ていると見える」
「これは異なことを。柔い神経の持ち主が、この曹魏でやっていけるとは思えませぬが」
 にっと薄い唇を三日月形に曲げる郭嘉に、曹丕はふんと鼻で笑った。
「それはその通りだな。僅かな手勢で主に囮になれなどと、そのような策を平気で献じる軍師のいる国だ」
「それを成し遂げる主のいる国でもあります」
「どうだかな」
「ご心配には及びませぬ。お父上は、吾が必ずお守り致しましょう」
「勘違いするな。心配などしていない」
「では、貴方と然程年のかわらぬ吾が、軍略に重きを担うがお気に召しませぬか?」
 まだ年若く、父親ほど感情を隠す術に長けぬ曹丕に、世慣れた白い面が揶揄かいの色を滲ませた。
「相変わらず良い性格をしている。だが、郭嘉。お前の言うとおり、お前は父より私に近い。何人たりとも時の流れは覆せぬ。いずれその才は、私のために使うことになろう」
「時の流れ、でございますか」
 それまで薄い笑みを浮かべていた口元が、不意に硬く引き結ばれた。
「なれど、天命も人には計り知れぬもの。そして、子桓様。吾は吾の才を、魏と言う国のために使っているのではございませぬ。吾は、曹孟徳と言う、唯一人に仕える軍師」
「私には仕えぬと?」
「貴方には、貴方に相応しい者がきっと現れましょう。それまでは、拗ねずにお待ちになられると良い」
「お前の物言いは、いちいち癇に障る」
「それはきっと、的を射ているからではございませんか?」
 声を立てて、郭嘉が笑う。
 他の文官から浮き立つ異分子の、ともすれば不敬と取れるその振る舞いを、曹丕は言葉ほどは厭っていなかった。
 曹孟徳が長子という立場が、如何ほどのものであるのか。
 目の前の眦のきつい男は、きっと誰よりも理解している。
 それ故に。
「待たれるが良い」
 耳に柔く、それなのに戦場に良く通る声が、淡雪のように鼓膜に溶け残った。






「・・・・・・様、曹丕様」

 肩に軽く触れられて目を覚ます。
 夢か、と小さく呟いて、伏していた机から顔を上げた。
「転寝とは珍しい。余程お疲れのご様子。少し休まれては如何ですか」
 眠りを妨げた者は、黒羽の扇に半分ほど顔を隠して、眉間を顰めた主を伺う。
「余計なことだ。これしきのことで疲れなどしない」
「そうですか・・・」
 そっけなく言い返すと、秀麗な眉宇が僅かに寄せられた。
「仲達、私が心配か?」
 ふと、普段なら言わないような言葉を口にのせる。
「勿論でございます」
「心配なのは、私自身か?それともこの国か。いや、それよりも・・・・・・」
 流れるように継いでいた言葉を言いさして、曹丕は急に黙りこんだ。
「・・・曹丕様?」
「仲達。私が死ねば、お前は次代へ仕えるか?」
「・・・一国の主が、軽々しく死ぬなどと口にされてはなりません」
「答えよ」
 口元は笑みの形に、しかし、眸には醒めた色を湛えた曹丕に、細い首が緩く振られた。
「・・・仰っている意味が分かり兼ねます。第一、貴方様は私めに、定石通りの答えを求めてはおられませぬゆえ」
「言い切ったな」
 見返した月光より蒼白い貌には、僅かの感情も伺えず。
 それを楽しげに眺めやって、曹丕は再び目蓋を閉ざした。
「・・・懐かしい、夢を見たのだ」
「・・・・・・左様でございますか」
 ぱちりと灯火の爆ぜる音に、手で下がるように指し示す。
 静かに遠ざかる気配を感じながら、曹丕は堪えきれぬように小さな笑いを漏らした。
「似通っているのは面差しだけだ」
 目を開く。
 既に、線の細い、しかし誰よりも強かな軍師の後姿は視界になく。
「待った甲斐があったと言うことか。精々、楽しませて貰うとしよう・・・」
 聞く者のない呟きを、薄闇に投げ掛ける。

 鼓膜に溶け残っている淡雪が、
 微かに笑ったような気がした。