情人節
数多の人にとって特別な日。
浮かれた気分を厭うまでもないけれど。
それが己にとって特別だなどと。
ただの一度も、思ったことはない。


一国の最高権力者と言うこともあるだろうが、曹操のもとへは毎年情人節の日、たくさんの巧克力が届けられる。
基本的にフェミニストである曹操がそれらを無碍に扱わず、それ相応の返礼をするのも、人気の要因になっていた。
しかし。
今年の様相は少し違った。
今年は巧克力を貰わぬと、曹操が公言したのだ。
ただ一人を除いてはと、但し書きを付け加えて。
意図を隠そうともしないその態度に、夏侯惇などはため息をつく。
けれど、あからさまにメッセージを送られている当の本人は、見事なほどにそっけなかった。
それでも、と夏侯惇は思う。
ああ見えて、あいつは優しいところもあるから、孟徳のために嫌々でも巧克力を買っているかも知れないと。
今年も両手に抱えきれぬほどの巧克力の包みを抱えて、丞相の執務室の扉をくぐった夏侯惇は、すぐに此処へやって来たことを後悔した。
外気の冷たさとはまた違う、ひんやりとした空気が漂う。
立ち竦む隻眼の将軍に気付いた軍祭酒が、三日月の形に薄い唇を吊り上げた。
「これは、元譲殿。ご機嫌麗しゅう」
「・・・そう見えるなら、目がおかしいぞ郭嘉。自分の機嫌が麗しくないからって俺に当たるな」
「当たってなどいませんよ。それより、何ですか、その大量の荷は。大方、またここに置き去りにするつもりなんでしょう?」
今度は本当に面白そうに目を細めた郭嘉に、横合いからこれまた不機嫌そうな声が割って入った。
「ならんぞ、元譲。儂は今年は巧克力を受け取らぬのだ。ここに置くことは罷りならん」
「・・・孟徳。お前、本気なんだな」
「勿論だ。ただ一人を除いてはな」
ここ最近、耳にタコが出来そうなほど聞かされた言葉に、夏侯惇は溜息をつく。
そんな主を一瞥して、郭嘉は冷然と言い放った。
「なれど、殿。廊下になにやら大量の山が出来ておりましたが?」
「儂は知らん。要らぬと言っているのに寄越すものなど、碌なものではあるまい。処分させる」
「だが、孟徳。事情を知らぬ遠方からのものがあるかも知れんぞ。何もかも、粗略に扱っていいものではあるまい」
「そうですね。毎年恒例のこと。あちこちでコナをかけたご婦人方からの贈り物があるでしょう」
「・・・・・・」
見事な連携で責められて、曹操は眉間に深い皴を刻んだ。
「大体、要らぬ要らぬと言っておいて、もし喬姉妹から巧克力を贈られたら断れるのですか」
「む・・・」
「出来もしないことを口になさるな。それより、殿。もう用はお済みですか?吾は仕事が山積み故、司空府へ戻りたいのですが」
卓の上に広げてあった書簡を手際良く纏めて、郭嘉はくるりと振り返る。
これ以上ここにいて痴話喧嘩に巻き込まれるのは御免だと、じりじり後退りかけていた夏侯惇は、色の薄い眸に射られて顔を強張らせた。
「元譲殿もお帰りのようす。吾も一緒に参りましょう」
「え、おい、」
有無を言わせぬ素早さで勇将の片腕を掴み、郭嘉はずかずかと扉へ向かう。
室を出る寸前、僅かに振り返った視界には、卓についたまま恐い顔をしている曹操が映った。

結局、それから曹操に呼ばれることもなく、郭嘉は常にない真面目さで仕事をこなして自宅へ帰った。
山のような書類をあっという間に片付けると、陳羣らがやたら感動の目を向けてきたが、気分の優れぬ郭嘉にとって、それすらも厭わしいものに感じられた。
最早、そもそも何がそんなに厭わしかったのかも思い出せない。
今日と言うこの日が、おかしな行事の日だと言うことは知っていたが、興味がないだけで嫌うほどのものでもなかった。
曹操が、あのようなことを言い出すまでは。
『もうすぐ情人節だな。甄姫は子桓のために、特別な材料を取り寄せて巧克力を作るそうだぞ。蜀では劉備が呉の姫から毎年手作りの巧克力を贈られているらしいし、二喬などは特に凝った贈り物をするそうだ』
腕に抱かれて眠りにつこうとしていたときに、耳元で囁かれた言葉。
それ以上は続かなかったが、顔には明らかに『羨ましい』と書かれていた。
そうですか、と興味なく切り返したら、翌日にあの巫戯けた宣言が出て。
馬鹿馬鹿しくて涙が出た。
いったい、そのようなもので今更何を競おうと言うのか。
「かたちにせねば分からぬのか。お生憎さまだ」
呟いて、自室の牀榻に身を横たえる。
昼間よりも、もっとずっと、気分が悪くなっていた。
己で触れた額が熱くて、郭嘉は気だるげに細く息を吐く。
目を閉じる瞬間、曹操の強い眸が目蓋に浮かんだ。

どのくらい経ったのか。
室外が騒がしい気がして目を開いた。
下男の慌てたような声と共に、力強い足音が聞こえてくる。
身体を起こすと同時に、遠慮もなく扉が開かれた。
「奉孝!」
「殿・・・」
畏まっている下男に手で下がるよう合図して、郭嘉は牀榻から一歩を踏み出した。
その途端、くらりと視界が歪む。
床に倒れるかと思った身体は、間一髪で強い腕に抱きとめられた。
「奉孝っ!?また熱があるな!?」
「申し訳ありません・・・。少し気分が優れぬだけです。それより殿、この夜更けに如何な急用です?」
無理やり笑みを浮かべて見せながら、郭嘉は大方見当をつけていた。
どうせ昼間のことを詰りに来たのだろう。
冷静沈着のようで、存外子供っぽい主の気性を思う。
だが、曹操から返ってきた言葉は予想外のものだった。
「用などない。用がなければ来てはならぬか?」
「殿?」
きつく抱き締められて、息が詰まった。
「殿、苦しい・・・」
「馬鹿者めが。儂が来ねば、一晩中もっと苦しい思いをしたであろうが!すぐに薬師を呼ぶから待っておれ」
辛いはずの郭嘉より更に辛そうにそう言って、曹操は瘠せた背から手を離す。
だが、その手は咄嗟に強く握り返された。
「奉孝?」
「大丈夫です。大したことはありませぬ。それよりも・・・」
ぶるりと寒さに震えた肩を抱きしめ直して。
曹操は、見た目どおりに軽い身体をそっと牀榻へ横たえた。
「寝ておれ。儂が傍におる」
「殿・・・」
「そのような顔をするな。お前は生意気そうにしていて丁度良いのだ」
「なんですか、それは・・・」
くすりと笑って手を伸ばす。
触れた指先を乾いた手にしっかりと握り返されて、その少し冷たい温度が心地よいともう一度笑った。
「・・・もう、日付は変わってしまいましたね」
「そうであろうな」
目蓋を上げると、見下ろしてくる優しい眸と目が合った。
「かたちなど求めてはおらんのだ。悪かった」
「・・・・・・今更なんですか」
わざと刺々しく応じれば、覇気のある顔に苦笑いが浮かぶ。
それに穏やかに笑み返して、郭嘉はもう片方の手を差し伸ばした。
その手もやはり望みどおり、
少し冷たい掌に包まれて。


ずっと傍にいると。
だから、ずっと傍にいてくれと。
祈る声を、夢見心地のなかで聞く。


数多の人に、
特別な日は過ぎ去っても。
いつだって、己には貴方との日々が特別なのだと。


あたたかな夢を見る。
決して、口にはしない想いを抱いて。