情人節
今日のこの日は、
いつもと同じで、少しだけ違う。
恋を夢見る少女ではないけれど。

こんな気分は、嫌いではない。


予約しておいた巧克力を受け取って、大事な人のいる室へ向かう。
途中、相変わらず不機嫌そうな司馬懿と出会って、時間もあったことだから、情人節について話をしてみた。
綺麗な顔を不愉快そうに歪め、それでも黙って聞いていた軍師殿があれからどうしたのか。
少し気にならないでもないが、今は優先すべきことがある。
前々から、今日は一緒に過ごそうと約束していた。
きっと、理由など分かってはいないだろうが、それで構わない。
目当ての室の扉を叩こうと手を伸ばしたところで、中から何かが崩れるような大きな物音が聞こえてきた。
「夏侯淵殿?」
驚いて、鍵のかかっていない扉を押し開く。
「おう、張コウ!いいところに来たな!」
「何がいいところなんだ・・・」
邪気のない明るい声に続く、重苦しい唸り声。
その当人は床の上で、山ほどの色取りどりの包みに埋もれていた。
「何をなさっているのです、夏侯惇将軍?」
「遊んでいるように見えるか?」
「まぁ・・・見えなくもありませんが」
首を傾げて見せると、隻眼の偉丈夫は疲れた顔をして立ち上がった。
「嘘ですよ、将軍。これは、女官達からの贈り物ですね」
明らかに情人節の巧克力だと分かるたくさんの包み。
夏侯惇ならば、これほどの量を貰おうと驚くには値しない。
けれど、問題はそこではなく、それがなぜ夏侯淵の室にあるのかということだった。
「俺は甘いものは好かんのだ。言っているのに、なぜか持って来る。いつもなら孟徳宛の山の中へ置いてくるんだが」
何かを思い出したのか、夏侯惇は更に嫌そうに顔を顰めた。
「今年は置いてこれない訳でも?」
「それがな。今年は孟徳が一人からしか貰わぬと駄々を捏ね始めて・・・それで、あっちも揉めているんだ」
「ああ・・・」
丞相お気に入りの美貌の軍師は、およそ情人節など歯牙にもかけぬだろう。
澄ました冷たい顔を思い浮かべて、張コウは小さく苦笑った。
「それで、困って夏侯淵殿の室まで持ってきたというわけですか」
「食べ物だし、捨てるにも忍びない。幸い、淵は甘いものは食べるほうだしな」
でも、と張コウは反論しかける。
夏侯淵は、甘いものは食べるには食べるが、それほど好きと言うわけではない。
だから、自分も巧克力は出来合いのものを買ってきた。
メインは、自宅に招待して、夕餉を振舞おうと思っている。
だが、口にしかけた張コウの異論は、朗らかな声に遮られた。
「さすが惇兄!もてる従兄弟を持って俺は自慢だな。いらないのなら、これは俺が貰っておくよ」
「すまんな。一応、贈り主の確認はしてある。気にせず中身を処分してくれ」
少し済まなそうな色を顔に浮かべた従兄弟に、夏侯淵は相変わらずの笑顔を向けて。
室を出ようとした夏侯惇は、そこで初めて張コウの手にしたものに気がついた。
「おまえも・・・いや、張コウ、まさかこれ」
「はい。これは私から夏侯淵殿へです」
きっぱりと言い切ると、曹魏第一の勇将は「ああ、そう」と酷く疲れた顔をしてため息をついた。
それでも何も言わずに退室した夏侯惇に、「あの方も苦労性だな」と暢気に思う。
そして、ようやく二人きりになれた張コウは、改めて夏侯淵に赤い小箱を差し出した。
「淵殿。そういうわけで、これは私から貴方へです」
「え?本当に貰っていいのか?」
「はい。淵殿にはお世話になっていますし。私が贈るのは、淵殿にだけです」
さりげなく付け加えた本音も、曹魏一の天然には通じなかったらしく。
夏侯淵は「じゃあ俺もお返ししなきゃな」とニコニコ笑った。
「お返しをいただけるなら、一ヵ月後の白色情人節でお願いしますね。それより、淵殿。あんなにたくさんの巧克力、どうなさるのですか?淵殿ご自身も女官から貰われているでしょう?それに、」
少し言葉を切って、張コウは僅かに眉を潜めた。
「本当はそれほど甘いもの、お好きではありませんよね」
「ああ、張コウはやっぱりすごいな。バレてたか。でもいいんだよ。ほら、いつも弓を教えてやっている近所のガキンチョどもに配ってやるさ。きっと、喜ぶぞ!」
「そうですか」
「そうだよ。あ、でも、お前のやつはちゃんと俺が食うからな!」
にかっと見上げてくる顔に、急に頬が火照るのを感じる。
ああもう!と心の中で呟いて、張コウは慌てて表情を取り繕った。
「ありがとうございます。それで、今日なんですけど。これからお時間、大丈夫ですよね?」
「おう。約束だからな」
「じゃあ、うちへ来られませんか?甘いものばかりではと思って、夕餉を用意しています」
巧克力より、こちらが本命。
元々、何も出来ないより出来るほうが美しいとの信念を持つ張コウは、料理だって一通りこなせた。
目の前の人が、自分にとって大切なのだと気づいてからは、食事を楽しむ彼の人のために、より腕に磨きをかけて。
今では、仲は良いが言葉に遠慮のない甄姫ですら、素晴らしいと誉めてくれる。
「さすが、気が利くなぁ。いつも甘えちまって悪いような気もするが」
「気にしないで下さい。私が好きでやっていることです」
「じゃあ、本当に甘えさせてもらうか。で。夕餉、もしかして、おまえが作るのか?」
「はい」
頷くと、小さな丸い眸が嬉しそうに輝いた。
「やった!おまえの料理、本当に旨いよな!武官やめても、料理人で食っていけるぜ!」
誉め言葉は素直に嬉しいが、将軍を辞めてしまったら、もう夏侯淵の傍にはいられなくなる。
「武官、やめるつもりはないですけど」
そう思って苦笑すると、同じような苦笑いが返された。
「分かってるって。言ってみただけだ。だって、辞めちまうと、一緒に戦えなくなるもんな」
旨い料理が食えなくなるより、そっちのほうがつまらないと。
続けられた言葉は、動悸の煩くなった耳に柔らかく溶けた。
本当に。
恋する少女ではないのだけれど・・・。
「張コウ?大丈夫か?顔が赤いぞ」
「・・・少し室が暑いようです・・・」
「そうか?まぁ、いいや。それじゃあ行こうか!」
歩き出す人を、目で追いかける。
深く深く、呼吸をして。
「はい!」

取り繕うのではない、心からの笑みが自然に浮かんだ。


いつもと同じで、
少しだけ違う。

この今日という日を、幸せに感じて