存在の当然
 「元譲殿」
 小莫迦にしたような、それでいて甘ったるく響く声に名を呼ばれ、窓際に立って中庭を見ていた夏侯惇は振り返った。
 その眉間には、不愉快そうな深い皺が刻まれている。確かめなくとも、名を呼んだ者が誰なのか、分かり切っていたからだ。
「おお。なにをそんなに怖い顔をなさっているのです?」
「生憎、この無粋な顔は生まれつきでな」
 心情を隠そうともせず、夏侯惇は言い捨てる。その物言いには、周囲を威圧する迫力があったが、当の相手は意に介さぬというように口元に薄ら笑いを浮かべた。
「お戯れを。片目を失くして尚、華を失わぬ容色が無粋だなどと、元譲殿も意地が悪い」
「おまえには負ける。それにしても郭嘉。さっきから、なぜ俺を字で呼んでいるんだ?」
 口でやり合ってこの優男に勝てないことは、疾うの昔に知っている。普段なら口論は避ける夏侯惇だが、どうしても見過ごせない事実に会話を繋いだ。
「いいじゃないですか、別に。貴方も奉孝と呼んでくれて構いませんよ」
 それまでの畏まった口調を一変させて、郭嘉は崩した身嗜み同様の態度になる。慣れている夏侯惇は別段驚きもせず、頭ひとつ低い相手を見下ろして言い切った。
「断る」
「ふん、いいですけどね。でも、吾は元譲殿と呼ばせてもらいますから」
「駄目だ」
「なぜ?」
「なぜもくそもあるか!何で俺がお前に字で呼ばれなければならんのだ!孟徳ではあるまいし、」
「ケチ!」
 言い募ろうとした夏侯惇は、子供染みた強い非難の声に、一瞬ぽかんと口を開けた。
「吾だけ仲間外れですか?」
「な・・・仲間外れって」
「吾は殿と同じように貴方を字で呼ぶ。だから、貴方も殿と同じように吾を字で呼べばいい」
 苛々したように細い眉を顰めて、郭嘉は隻眼の偉丈夫を睨み上げる。薄い指の爪を噛むその仕草に、夏侯惇はこの若い軍師の虫の居所が相当悪いことを悟った。
「・・・そんなことをしたら、孟徳に要らぬ悋気を持たれてしまう。下らぬ面倒に巻き込まれるのは御免だ」
「は!それこそ要らぬ心配だ。あの人は誰よりも貴方を信じているからな」
「孟徳が信じているのはお前だ、郭嘉。我が軍の勝利の神を、あいつは誰よりも大事にしているだろう?」
「・・・勝利の神、ね」
 諌めるような夏侯惇の口調に、郭嘉は一瞬口篭り、すぐに唇に嘲笑を刷いた。
「優しいね、貴方は。やっぱり、あの人が一番大事にするだけはある」
「あのな、郭嘉。お前が何を拗ねてるのか知らんが、下らぬ愚痴に付き合う暇はないぞ」
「事実だ。だって、もし吾と貴方が崖っぷちにぶら下がって瀕死で助けを求めていたら、あの人は迷わず貴方を助けるよ」
「そんなことはないだろう?」
 自信満々に言い切る郭嘉に、夏侯惇は納得いかぬと言うように顔を顰める。そして、「体力なら俺の方があるのだからお前を助けるはずだ」などと真面目に反論すると、郭嘉は呆れた眼差しで見返してきた。
「そう言うことじゃない。貴方はあの人の血肉の一部。それを失うのは、耐えられないってことさ」
 長い紺衣を引き摺って、郭嘉は壁際に設えた坐臥に腰掛ける。そして、丸まるように膝を抱え込むと、強く言葉を続けた。
「非情に見えて、また、実際冷酷だけど、あの人はいったん懐に入れ、信頼を置いた者には歯痒くなるくらい心を砕く。情け深すぎるくらいにね。特に、旗揚げの時から苦楽を共にした貴方は、あの人にはなくてはならない大事な存在。絶対に貴方を助けるさ。軍師の言葉を疑うか?」
「・・・・・・疑うまい。しかし、郭嘉。それを言うならやはりお前も同じだ。お前とて、既に孟徳の血肉の一部。なくてはならぬ者だろう」
 夏侯惇は窓際を離れ、行儀の悪い子供のように坐臥に丸まっている郭嘉を見下ろす。郭嘉はその視線を受け止めて、切れ長いきつい双眸を和らげた。
「本当に優しいね、色男殿。女官が騒ぎ立てるのも無理はない。知ってるか?女だけでなく、男でも貴方の閨に侍りたいと思ってる者は結構いるんだぞ。確かに良い男過ぎて、ちょっと吾もくらくらするな」
「ばっ、馬鹿か!どうしてお前はそう不真面目なんだっ!」
「安心してよ。こう見えても、吾はあの人みたいに多情ではないから」
 良く通る美しい声が、堪え切れぬというように笑い出す。
 遠慮もなく笑う郭嘉の、その恐ろしいほど整った怜悧な貌を見つめながら、夏侯惇は小さく息を吐いた。
 小憎らしいほど生意気で手に負えない若造だが、曹孟徳を理解し、思う気持ちの深さには感じ入るものがある。乱世の奸雄を『情け深すぎる』と評した者を、夏侯惇はこの男以外知らなかった。
 だから、結局。
 嫌いにはなれぬ。
 鼻持ちならぬと思いながらも、萎れているのなら手を差し伸べてしまう。
 それに。
 腺病質な身体に圧し掛かっているだろう重圧を、知らぬと言い捨てるほど非情にもなれなかった。
 胸中に思いを巡らせて黙り込んだ夏侯惇を一瞥して、郭嘉は笑い含みに楽しそうに口を開いた。
「でも、元譲殿。関羽と貴方がぶら下がっていたら、あの人は関羽を助けるかもね。喬姉妹でもそうかもしれぬ。ああ、でもそれはちょっとムカつくかなぁ」
 完全に揶揄かう口調になった郭嘉に、夏侯惇は渋い表情を向けて肩を怒らせた。
「何とでも言っとけ!だが、字で呼ぶなと言っとるだろう!」
「何を声を荒げとるんだ、元譲?」
 反り返った途端、いきなり背後から聞こえた声に夏侯惇は驚いて振り返った。その脇をさっさとすり抜けて、郭嘉は現れた曹操の傍に身を寄せた。
「殿からも言って下さいよ。夏侯惇将軍は吾が字で呼ぶと怒るのです。吾を字で呼んで欲しいと言っても聞いて貰えぬし」
「なんだ、元譲。いいではないか。字で呼ばせてやれ」
「しかし、」
「吾ら3人が居る時だけでも構わぬのです」
「奉孝がこう言っているんだ。そうしろ。さて。では行くか」
 勝手に決めると、曹操は臆面もなく郭嘉の手を引いて室を出て行く。それを黙って見送りかけた夏侯惇は、はっと我に返って声をかけた。
「おい、孟徳!行くって何処に行くんだ?!」
「城下に。先日の豪雨の被害を見ておこうかと思ってな」
「そんなこと、他の奴らにやらせろ」
「わしが直接見たいのだ」
「とか何とか言って、おまえ午後の執務をサボるつもりだな!」
「荀ケたちが探しに来たら適当に誤魔化せ」
「孟徳!」
 叫ぶ夏侯惇に、曹操は悪戯っ子のような笑みを向ける。
「気晴らしじゃ。のう、奉孝」
 子供のように頭を撫でられた郭嘉は、驚いたように琥珀色の目を瞠った。しかし、驚愕の表情はすぐに消え、艶やかな笑みが白い貌に浮かぶ。
「まぁ、悪くはありませんね」
 捻くれたその物言いに、曹操は愉快そうに目を細めた。
「では後は頼みましたよ、元譲殿」
「郭嘉!」
「奉孝ですよ」
 笑う郭嘉の声には、先程まで見え隠れしていた憂鬱の欠片もない。
 それに気付いて、夏侯惇は諦めたようにがっくりと肩を落とした。
 楽しそうに出て行く不良主従を見送って、仕方ないと息を吐く。
「・・・ほらな。孟徳は、歯痒いほどに心を砕くだろう?」
 何があったのかは知らぬが、あの生意気な軍師は既に曹孟徳の血肉なのだ。
 それは、曹魏にはなくてはならぬと言うことでもある。
 夏侯惇は片方だけの目を中庭へ向けて苦笑いを零した。
 隻眼に映る蒼天の空は、何処までも高く澄み渡っていた。