目覚めたときには、傍らの温もりは消えていた。
 然もありなんと思う。
 今日から彼の将軍は、北辺を荒らす山賊討伐へ出るのだ。
 今頃は慌しく、出立の準備に追われていることだろう。
 正規の行軍とは違う賊伐とは言え、遠征には違いない。
 また暫くは会えない日々が続くな、と。
 事実を事実として反芻して、司馬懿は気怠るさの残る身体を牀榻に起こした。
 いつもより重く響く腰の痛みに、思わず舌打ちする。
 それでも、暫くは会えないのだからと、好き勝手してくれた相手に対する寛容を胸のうちに繰り返した。
 甘いなとは思いつつ、自己弁護が含まれてないとは言い切れないので、それきり考えないことにする。
 窓の外を見ると、昇ったばかりの朝日が目に映った。
 身支度を整えるため、単の夜着を脱ぎ捨てて。
 何の気なしに己の身体を見下ろした司馬懿は、一瞬怪訝に眉を顰め、次の瞬間、真っ青になって唇を震わせた。



 日が昇り切ったら許都を発とうと、徐晃は隊を整えて北門に控えていた。
 任された賊伐は、仰々しく出立をするものではない。もちろん、見送りのあるものでもない。
 別に寂しくもなかったが、まだ明けやらぬうちに声もかけず後にした、愛しき人の温もりが心に残った。
 このようなことを思っているなど知れたら、未練がましいと彼の人に笑われるに違いない。
 その様子が容易に想像出来て微苦笑を口元に浮かべた徐晃は、微かに届いた声に首を傾げた。
「?」
 想うあまりの気のせいかと流したが、声は次第にはっきりとしてくる。
 ついに紛うことなき己の名が聞き取れるに至って、徐晃は驚いて馬上から振り返った。
「司馬懿殿っ!?如何なされた?」
 幻覚でもなんでもなく、そこには息を切らせて青い顔をしている想い人がいた。
 よほど急いだのか。
 肩で息をつく人は、黒羽扇の陰から鋭い眼差しを投げつける。
 兵たちに静かな動揺が走った。
 しかし、それに構うことなく、司馬懿は有無を言わせぬ強さで言い放った。
「徐将軍、お話がある!馬を下りてこちらへ来られよ!」
 只ならぬ剣幕に慌てて馬を飛び降りた徐晃は、踵を返した細い背を追いかける。
 兵たちからは見えぬ物陰に身を滑り込ませた司馬懿は、徐晃に向き直るときつく目線を上げた。
「何か火急の用でござろうか?」
 声を潜めて問いかける。
 司馬懿が見送りに来たのではないことは明らかに知れた。
 元々そのようなことをする人ではないし、なによりも現状の違和感が普通でない空気を伝えてくる。
 思いつく限りの不測の事態を描き、眉宇を曇らせた徐晃の目の前で、白い繊手が紫の襟元にかけられた。
 何をするのかと目を瞠った途端、司馬懿は着物の袷を大きく寛げる。
「し、司馬懿殿っ?!」
 惜しげもなく晒された日に焼けぬ柔肌に、徐晃は動転して声を高くした。
 しかし、当の司馬懿はその仕草の婀娜っぽさとは裏腹に、眦を吊り上げて目の前の男を睨みつけた。
「徐晃殿、これはなんだ?」
 押し殺した低い声音に、言われるままに指し示された場所を見る。
 鎖骨の下から胸元にかけて、薄い肌には目に痛いほどの赤い跡が浮かび上がっていた。
「・・・・・・」
「これはなんだ?」
「えー、と・・・」
「いつもいつも、あれほど痕をつけるなと頼んでいる筈だが?」
 司馬懿は肌に情事の痕を残されるのを殊のほか嫌う。
 だから、いつも傷つけぬよう注意を払っているのだが、稀に上手くいかないこともあった。
 特に、暫くは会えぬと、焦燥に似た想いが胸に燻っているときなどは。
 そっと目を合わせると、澄んだ榛色の双眸には静かな怒りが漲っていた。
「・・・申し訳ない。だが、そこなら幸い、誰の目にも留まらぬでござろう」
「慰めにもならぬ」
「司馬懿殿・・・」
「あれほど言ったのに。どうして痕を残したのだ」
 口調が穏やかな分、怒りの深さが伺える。
 蒼白い顔をした人を見下ろして、徐晃は思わず溜息をついた。
「それほどまでに、拙者の痕跡が残るのがお厭なのでござるか・・・」
 かなり胸にこたえる想い人の態度に、いやおうにも気分は落ち込んでしまう。
 その沈んだ声音を聞いて、司馬懿はいっそう柳眉を吊り上げた。
「馬鹿めがっ!そういうことを言っているのではない!誰の目につかなくとも私に見えるだろうがっ!鏡など見ずとも目に入るのだぞ!?貴方には私の痕などなにも残らぬと言うのにっ・・・」
 もの凄い勢いで言い切ってから、はたと黒羽扇で口元を隠す。
 言われた意味がまだよく呑み込めていないらしい徐晃の表情を見やって、司馬懿は畳み掛けるように扇を振った。
「ま、まぁそういうことだから、これからはより留意されよ。ではな」
 くるりと背を向けて、そのままさっさと立ち去ろうとする。
 しかし、それが許されるはずもなく。
 強い手に腕を掴まれて、引き戻された身体は真っ黒な眸と向かい合いになった。
 普段は多少天然気味な徐晃だが、司馬懿に関することだけは妙に聡い。
 その聡さを今は発揮してくれなくてもいいと、うっかり口を滑らせた司馬懿は冷静ぶった顔の下で願っていた。
 会えない日々が続く。
 きっと、真面目な徐晃は忙しさに紛れて情人のことなど思い出しもしないだろうに。
 己だけが肌に残された痕を見るたびに、彼の人に思いを馳せるだろう。
 それが悔しくて、情けなくて。
 激情のまま飛び出した。
 いつも、徐晃のこととなると冷静な判断を欠く己を知っているから、これ以上失態を重ねぬうちに早くこの場を立ち去りたいと苛立ちが募る。
 しかし、
「痕など残っていなくても、拙者はいつでも司馬懿殿のことを思い出してござるよ」
返ってきた言葉に、子供染みた胸のうちが奇麗にばれてしまったことを悟った。
「司馬懿殿が痕を見たときにしか拙者のことを思い出さなくとも、拙者は何時だって貴方のことを想ってござる」
「よ、よくもそのようなことを恥ずかしげもなくっ・・・」
 虚勢を張って睨み上げる。
 目の前の人は陽に焼けた肌を赤くして、それはそれは嬉しそうに笑っていた。
「・・・・・・」
「一刻でも早く任務を果たし、お傍に戻って参ると約束致す。それまでどうか、拙者をお忘れくださるな」
 頬に掠めるだけの温もりが触れて。
 作法どおり拱手して去って行く徐晃の背を、だらりと羽扇を垂らしたままで見送った。
 視界から消える寸前、僅かに見返った眸が昇り切った朝日に照らされる。
 他力本願など何より嫌いなはずなのに。


 司馬懿はその清浄な光に、彼の人の無事をそっと祈った。