美しい人
 張コウは『美しい』と言う言葉を頻繁に使う。
 彼にとって『美しく』あることは生きていく命題に等しいらしく、浮ついて見える外見とは裏腹に、決して軽口を叩いているわけではない。
 出会った当初は呆れ果て不愉快な気分すら覚えていた司馬懿も、いつしかそれに慣れ、今では上手くあしらう術すら身につけた。
 扱いを間違わねば、張コウは頭の切れる優秀な将軍なのだ。
 だから、今だって、傍らに座る張コウの戯言に適当な相槌を打っている。
 滅多に出かけることのない繁華な大通り。
 美味いと評判の酒を出す店の窓際で、暮れ行く茜の空を眺めながら、司馬懿は人を待っていた。
 わざわざこんなところまで足を運んだのは、見知った者に会いたくない気分だったからなのに。
 着席してほどなく、散歩中だったらしい張コウに見つけられ、現在の状況に至っている。
 先ほどから張コウは、自分が『美しい』と感じた者について、延々と講釈を述べていた。
 約束の時間より早く来てしまった己を少しばかり呪いかけて。
 溜息をつきそうになった司馬懿は、耳に届いた名前にぴくりと細い眉を動かした。
「・・・で、やはり曹操様はお美しい方だと思うのです」
 うっとりした声音に、感情を押し殺した醒めた目を向ける。
「以前から思っていたことだが、おまえの『美しい』と言う基準は図りかねるな」
「そうでしょうか?」
 この日初めて司馬懿が口にした返事らしい返事に、綺麗に整った貌が綻んだ。
「私はただ、心の感じるままに美しいものを美しいと思うだけです。この国にはお美しい方がたくさんいらっしゃる。殿をはじめ、甄姫殿や夏侯淵殿。特に、夏侯淵殿のお美しさには感動を覚えます」
「・・・・・・」
「勿論、司馬懿殿もお美しい」
 華やかな笑みを向けられたが、その面子に加えられたことが喜ぶべきことにはとても思えず、司馬懿は益々眉を顰める。
 しかし、甄姫と夏侯淵を同列にする感性の持ち主には何を言っても無駄と悟っているので、おざなりな返事をして目線を逸らした。
 大体、『美しい人』と言うのは、他人を揶揄って意地悪く遊んだりするものなのか。
 張コウは心酔しているらしい主の顔が思い浮かんで、腸が煮えくり返る。
 『美人薄命』と言う言葉があるが、少なくとも先の面子は、甄姫ですら当て嵌まらぬと胸のうちに吐き捨てた。
 藍が深まる空に、いっそう傾いた夕陽が眸を射る。
 約束の時間にはまだならぬのかと、苛々と爪先で卓を叩いた司馬懿は、視界に入った見覚えある頭巾に指の動きを止めた。
「あ」
 けれど、先に声を上げたのは張コウで。
「あの女、また・・・」
 描いたような眉が顰められる。
 言葉どおり、司馬懿の待ち人は、町屋の軒先から現れたみすぼらしい風体の女に腕を引かれていた。
 女が、縋るような仕草で絡みつく。
 邪険に払うこともせず精悍な顔を曇らせて、男は相手を見下ろした。
「あの女、性懲りもなくまたやっているのですね・・・」
 ぽつりと繰り返された言葉に、司馬懿は訝しげな目を向ける。
 困ったように苦い笑みを浮かべて、張コウはその疑問に答えを与えた。
 視線を戻した先。
 深く拝んでくる女に照れたように両手を振って、待ち人は駆け足で店に飛び込んで来た。
「申し訳ない、遅れてしまったか?」
 窓際に座っていた司馬懿にすぐに気がついて、大柄な体が真っ直ぐに歩み寄る。
 傍らの張コウはすっと席を立つと、入れ替わるようにその人を座らせた。
「張コウ殿?」
「偶然司馬懿殿にお会いして少しお喋りしていただけです。もうお暇します。それから、徐晃殿、」
 長い指が、店主の持ってきた澄んだ色の杯を優雅に卓の上へ差し出した。
「これは、私から」
「は?」
「奢りです」
 軽く片目を瞑って出て行く長身をあっけにとられて見送って、徐晃ははっと正面に向き直った。
「司馬懿殿、遅れて申し訳ない」
「別に、遅れてなどおらぬ」
 その割には不機嫌さを滲ませた白い面に、徐晃は戸惑ったように眉宇を寄せる。
 身じろいだ拍子に、安い女物の香の匂いが纏う着物から立ち上った。
「張コウ殿は、何故、奢りなど置いていかれたのでござろう?」
 話題を変えて首を傾げると、目の前の不機嫌な顔が今度はどことなく悲しげな色を浮かべた。
「司馬懿殿?」
「・・・居らぬのだ、子供など」
「は?」
「だから。病の子供など、存在せぬと言っているのだ」
 苦々しく言い捨てて、状況が呑み込めていない徐晃をきつく睨みつけた。
『あの女、この辺りでは有名な詐欺師なのですよ。病の子供が居て困っていると、情け深い旦那方を誑かすのです。徐晃殿は、幾ら騙し取られたのでしょうか』
「馬鹿目が!あの詐欺師に、有り金殆ど渡したのであろうが!」
 断言に、黒い眸が驚いたように丸くなる。
 その様を見て、司馬懿は無性に腹が立った。
 優しい者が損をするなど気分が悪い。
 それにも増して、簡単に付け込まれるほど誰にでも優しい徐晃に、殴りたいほど腹が立った。
「貴方はあの女に騙されたのだ」
 未だ戸惑い気味の徐晃に、駄目押しのように冷たく告げる。
 その言葉を聞いて瞠られた目は、次の瞬間、思いがけずふわりと和らいだ。
「そうか、良かった」
「なに?」
 聞き損ったのかと思って尋ね返すと、穏やかな色を浮かべた微笑みが返って。
「病気の子供は、いないのでござるな」
「!」
 張コウの残した杯に、安堵の吐息が漣を起こす。
 卓の上で筋が立つほど己の手を握り締めて、司馬懿はぎゅっと唇を噛んだ。
 もしもこれが、誰か他の者の台詞だったなら。
 負け惜しみを言うなと、哂うことも厭いはしないのに。
「司馬懿殿?」
 恐い顔をしてきつく睨みつけてくる司馬懿に、徐晃は躊躇いがちに声をかけた。
「・・・徐晃殿」
「な、なんでござろう」
「死なせぬからな」
 短く言い切ってがたりと席を立つ。
 そのまま真っ直ぐ店を出て行く背をぽかんと見送りかけて。
 はっと我に返った徐晃は、慌ててその後を追いかけた。

 美の定義など、人によってそれぞれであると、張コウを見ていると良く分かる。
 だから。
 己にとっては、徐晃ほど『美しい人』などいないのだと。
 改めて深くした認識に、司馬懿は腹立たしいほど胸を騒がせた。
 『美人薄命』だなんて、絶対実証させてやるものか。
 追いついてきた徐晃を振り返って、にっと笑ってみせる。
 どきりとして立ち止まった人が、己をどれだけ美しいと思っているかなど知りもせず。

 司馬懿は再び歩き出す。
 心の奥深くに、小さい、
 けれど、
 確かに暖かい灯を燈して。