仲達くんと公明さん
 午前の鍛錬を終えた徐晃は、いつものように井戸水を使い火照った身体を冷ましていた。自らの居室からは近くないのだが、奥まった位置にあって静寂なことと、傍らに城内には珍しい大樹があることが密かなお気に入りになっている。
 ここで、人を見かけることはまず滅多にない。
 しかしこの日、身支度を整えた徐晃は、遠目に見える渡り廊下に珍しく人影を見つけた。
「あれは司馬懿殿か?」
 紫色の頭巾と手にした黒い羽扇で、その者が先日新しく軍師になった司馬仲達であると判断する。
「何をしておられるのか、このようなところで・・・」
 司馬懿のいる渡り廊下は、一見何処かへ繋がっていそうに見えるが、実は行き詰まりになっている分かり難い回廊だ。それこそ、裏庭に下りて井戸にでも来ない限り特に行くべき場所もない。
 迷われたのか?
 一瞬そう考えて、首を傾げる。
 昨日、丞相の御前で居並ぶ武将に挨拶をした司馬懿は、まさに慇懃無礼を絵に描いたような態度だった。
 冷ややかな目があからさまな侮蔑を浮かべているのを見て、夏侯淵将軍などは今にも掴みかかりそうに憤っていた。(それは、結局夏侯惇将軍に宥められたのだが。)
 張コウ将軍の城内を案内しようと言う申し出にも、「要らぬこと」と礼も言わず、さすがの徐晃もあまり良い印象は受けなかったのを覚えている。
 だから、その司馬懿が迷子になるなどと言うのは、甚だおかしな気がした。
 しかし、しばらく見ていたが、司馬懿はウロウロと廊下を行ったり来たりした挙句、立ち止まってきょろきょろと辺りを見回し始めた。
 迷われているな・・・。
 そう確信して、徐晃は司馬懿の方へ足を進めた。基本的に、困っている者を放っておけない性分なのである。大きなお世話呼ばわりされるかもしれぬと思いながらも、声をかけようとした。
 その時。
 びたん!
 あまりにも間抜けな音が響いて、司馬懿が廊下に倒れ伏した。
「だ、大丈夫でござるか、司馬懿殿?」
 慌てて駆け寄った徐晃は、羽扇を握り締めて廊下にうつ伏せになっている司馬懿に声をかけた。しかし、向けられた背中はピクリとも動かない。
「司馬懿殿?」
「・・・・・・・・・」
「司馬懿殿、どうなされた?お怪我でもされたのか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「司馬懿殿っ?!」
 些か強く呼びかけると、司馬懿はバネ人形のように唐突に体を起こした。すかさず羽扇で顔を隠して、僅かに見える目だけで徐晃を威嚇するように睨み据える。
「・・・徐将軍か。ご覧になられたのか?」
「何をでござるか?」
 咄嗟に言われた意味が分からずとぼけた声を出した徐晃は、ポンッと手を叩いて笑顔になった。
「ああ!裾を踏まれて転ばれたことでござるか?それとも、迷子になられたことか?」
 浮かんだままを口にすると、黒羽の間から覗いていた白い肌が見る間に真っ赤に染まった。あれ?と徐晃が思う間もなく、司馬懿の容赦ない怒声が鼓膜を打った。
「馬鹿目がっ!馬鹿目がっ!私は迷ってなどおらぬっ!う、うつ伏せたのは、防御の練習だっ!」
『いや、どう見てもきょろきょろしていて裾を踏んでこけてました』
 徐晃はそう思ったが、さすがに口にすることなく困ったように言葉を継いだ。
「それは失礼致した。拙者の見間違いでござるな。この廊下は分かり難い造りになっていて拙者などは幾度も迷ったことがある故、ついそのような勘違いをしてしまったのでござる」
「・・・・・・」
 正直、ここまで高圧的な態度に出られて徐晃が下手に出る必要はなかった。面と向かって馬鹿呼ばわりされた上、それが年下の新参者であれば尚更だ。
 しかし、どうしてもこのまま放っては置けない気がして、徐晃は出来るだけ司馬懿の自尊心を傷つけない言い回しを選んだ。
「時に司馬懿殿、もしよろしければ、どのように拙者が迷ったか共にご覧になられるか?」
「・・・ふん。よかろう。将軍がどうしてもと仰るなら、一緒に歩いても構わぬ」
「では、ぜひ」
 にっこりと笑顔を向けると、黒羽の陰から覗くきつい目元がほんの少しだけ緩んだ。
「変わった方だ」
 言い捨てるようにして、司馬懿は大仰に羽扇を揺らした。それにつれて、隠れていた顔が露わになる。
「あ!」
「どうかされたのか?」
「い、いや・・・」
 羽扇の陰から現れた細く筋の通った鼻の頭は、転んだ時に打ったのか真っ赤に擦れていた。しかし、それを告げるとまた不機嫌になりそうで徐晃は口篭った。
「言いかけてやめるのは不愉快だと思われぬか、徐将軍」
「そう・・・でござるな。その、司馬懿殿。防御・・・の練習をされる時には、お顔に気をつけられよ。赤い痕は・・・目立つ故・・・」
 歯切れの悪い語り口に、司馬懿ははっと自分の手を鼻の頭に持って行く。
「ご、ご忠告、頂いておく」
 慌てた様子で踵を返して一歩を踏み出した司馬懿は、急に振り向いて口を開きかけた。
 が。
 びたん!
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
 再び廊下に伸びた司馬懿に、徐晃はどうしていいか分からず呆然と立ち尽くした。
 しかし、今度はすぐに体を起こした司馬懿は、羽扇で顔を隠すのも忘れて徐晃を睨み上げた。
「絶対に!絶対に他言無用だ!良いな、徐将軍っ!」
 耳まで赤く染めて涙目で怒鳴る司馬懿に、徐晃は反射的に頷き返した。
 不思議なことに、昨日同様の高飛車な態度に変わりはないのに、少しも不愉快な気分にはならない。それどころか、妙に頬が緩むのを感じる。
 面白い方だ。
 決して聞かれないよう、内心に呟く。
 肩を怒らせて前を行く背中に、先に行かれてはまた迷うだろうにと苦笑して、徐晃はおもむろに歩調を速めた。